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『さや侍』/松本人志

前二作の反省を生かしたがために、非常に中途半端な作品になってしまった、というのが第一の印象。反省というのは、もちろんしないよりはしたほうがいいのだが、問題はどの方向からの批判に耳を傾けるのかということ。松本人志ほどの有名人ともなれば、批判など全方位から浴びせられるわけで、もちろんすべての方向に軌道修正するなど不可能だ。

では今回松本人志監督は、どういう反省をもとに、どの方向へと舵を取ったのか。彼が本作の制作にあたって、まず何よりも念頭に置いていたのは、前二作に対する「これは映画ではない」「映画にまでしてやる内容ではない」という、なぜか映画というジャンルを特別視する層からの批判だろう。国内での興行成績を伸ばすためにも、これが無視できない意見であることは間違いない。しかしこれはまた、そのまま受け止めていい意見でもないのである。

上記二つの意見はさも根本的な問題点を指摘しているように見えるが、実はまったくそんなことはなく、ただ「内容に満足できなかった」ということをもっともらしく言っている常套句に過ぎない。内容に満足していれば、どんなに映画の文脈から外れていようと、いかにも映画的な重厚なメッセージがなかろうと、誰もそんなことは言わないし、言う人があったとしても無視していいレベルに終わる。その証拠に、ダウンタウンはデビュー当時「これは漫才ではない」との批判を一部から浴びつつも大ブレイクを果たしたわけだし、つまり松本人志のお笑い界での成功は、少なくともそういった批判に対しては反省をしなかった、というのがひとつの重要なファクターでもある。

結果として本作の構成は、前二作と大きく異なり、全体としていかにも映画的な、ベーシックな起承転結になっている。だがそれは、監督の意識が部分部分よりも全体の構成に集中しすぎているということでもあって、逆に言えばひとつひとつのネタは前作『しんぼる』以上に弱い。前作の問題点は引き継がれ、むしろ拡大している。

ネタバレになるので詳細は省くが、中盤には『しんぼる』同様に、かなりの長時間にわたって大喜利的な展開が待ち受けている。ここで主人公の野見さん=さや侍は、体を張ってあらゆる「笑い」にチャレンジしてゆくのだが、ここで使われるネタが、どれもこれも往年のバラエティ番組の罰ゲーム案の使い回し(『ごっつええ感じ』や『お笑いウルトラクイズ』で見覚えのあるような)の連続でかなり苦しい。たしかにここは野見さんの「面白さ」よりは「駄目さ」をアピールすべき場面でもあるし、展開的には後半の感動へ持っていくための「ネタフリ」でしかないといえばそうなのだが、しかし「ここはネタフリだから面白くなくてもしばらく我慢してください」というには、さすがに時間が長く単調すぎる。同じ「笑えなさ」が必要な場面だとしても、その笑えなさの質が「前衛的すぎる」「突拍子がなさすぎてついていけない」「わけがわからない」といった方向の、未知の領域への振り切れ方をしていれば面白いのだが、ここで展開されるネタはあまりにベタで既視感がありすぎた。さや侍のキャラクターとはそもそも、単に「つまらない人」というわけではなくて、「何かが面白いんだがそれが相手に伝わりにくい人」であったのではないだろうか。「つまらないから笑えない」のと、「面白いけど伝わらないから笑えない」のは全然違う。ここは「哀れなさや侍が一生懸命笑わそうとしているのに笑ってもらえない」状況が必要だったとはいえ、けっしてつまらなくていい場面ではなく、「伝わらない面白さ」を盛り込むことは可能だったはずだ。構成上の役割としては「さや侍がつまらないから笑えない」というだけで充分なシーンだが、役割を果たすために面白さを封印してしまうのは、あまりにもったいない。ここらへんにも、本作が全体のために部分を犠牲にしているスタンスが垣間見えた。

それに個人的には、「後半の泣きの前フリとして笑いを使う」という、つまりは「泣き」の下位に「笑い」を従属させるような、ある種の紳助イズム的な「笑い」の使い方があまり好きではない。個人の趣味だと言われればそれまでだが、僕の「笑い」の趣味の多くは松本人志からの影響であるわけで、たぶん彼も、こういう「笑い」の処理(「使い方」ではなく、「処理」という言葉がふさわしい)はそもそも好きではなかったのではないだろうか。この手の「処理」であれば、おそらく品川のようなタイプのほうが上手くやる。そういえばこのような感想を僕は、太田光の小説『マボロシの鳥』を読んだときにも抱いた。

しかし本作を「泣き」の映画として観ると、主人公がこんな斬られ方をして生きているはずがないとか、バラエティ番組のような大がかりな装置をたかが罪人のために作ってくれるはずがないとか、作るとしたら何日そしていくらかかるんだとか、そういった「笑い」であれば許される設定というのが観る側の興を削ぎ、感情移入を阻害してしまう構造になってしまっている。全体の構成としても、「この時間帯はこういうルールで」というように、各コーナーごとに異なるルールが設定されている形で、そういう意味では、たとえば「前半10分は本音のフリートーク。その次に10分間で数本のコントをやり、続く10分で泣ける深イイ話。そして後半はフレンドパーク的なゲームコーナー」というような、場面ごとにフィクションの階層が異なるバラエティ番組的なつぎはぎ感があって、どうも前半のフリが後半の「泣き」にストレートに加算されていかないもどかしさがある。「ここは嘘だから」という場面と「ここは嘘じゃないから」という場面が混ざっているというのは、後半の一点に向けて感動を高めていく構成には適さない。

ちなみに僕は、『働くおっさん人形』という番組が大好きだった(その前にやっていた『モーニングビッグ対談』も最高)。あれは伝説的な番組だと思っている。その後に続いた『働くおっさん劇場』も好きだが、やはり「劇場」より「人形」のほうが、文字どおりおっさんたちが何もできず翻弄される感じでいい。『人形』に野見さんが登場したときのインパクトは相当なもので、その薄気味悪さはまさに国宝級の発見だった。しかしその面白さは、あくまでも松本との会話の、あまりにも通じないやりとりの間に生まれた化学反応であったのも事実で、今回のように演技で、しかもほとんど喋らない役でその面白味が出るかといえば、たしかに雰囲気はあるんだけれども、あの「あやつり人形」としての恐るべき魅力を知ってしまった後では、やはり物足りなく感じてしまう。「人形」なのだから黙っていたほうが良い、というのは一見説得力のありそうな選択だが、野見さんの生命線はあくまでも松本の引いていたあやつり糸であり、その糸は言葉で編まれていたものだということを改めて痛感させられる。

物語のラストには、それまでのあまりにエンターテインメント映画的な、順当な起承転結からすると意外な展開が待っている。だがその意外性さえも、なんだか素直に驚けないのは、どうもその意外性が満を持しすぎているというか、用意されすぎている気がするからだ。この感触は実はラストだけでなく、どうも作品全般を覆いつくしていて、なんだか企画書的な感じが端々に匂いたっている。「逆に」とか「あえて」というタイプのアイデアは、企画書段階ではさも面白そうに見えるが、やってみるとそれほどでもないことが多い。そういう時なぜそのアイデアを「逆に」だとか「あえて」だと思ったかというと、そういう選択肢をこれまでの人はあまりやりたがらなかったからで、ということはつまりやっても面白くならないからやらなかったというだけ、ということがよくあるのである。もちろん、「逆に」とか「あえて」という裏切りは、面白さを生むために重要なポイントであるのは間違いないが、だからといって順接を逆接にすればそれだけで必ず面白くなるというわけではない。たとえばタイトルの『さや侍』というのも、いわば刀に対する逆接としての「さや」が使われているのだが、なぜ彼がさやだけを身につけているのかは、最後まで観てもどうも判然としない。いや刀を持っていない理由はわかるのだが、だとしたら普通はさやも持たないはずである。そこであえてさやだけを身につけている理由とは、どうも『さや侍』という逆説的なタイトルの響きを優先しそこから逆算した結果でしかないのではないか、という気がしてしまうのだ。こういう「外枠から考えて、内容をそこに都合よく当てはめてしまう」というのがつまり企画書的な考え方というやつで、これをやっている限り、真の意味で意外性のある魅力的な物語は生まれない。

といって松本人志監督に「魅力的な物語」を求めているかというと全然そんなことはなく、お笑いファンでない映画ファンはあるいはそうなのかもしれない(そしてそこをターゲットとするならば、制作者サイドもそれを求めるだろう)が、僕は少なくとも松本作品にそういうものは求めていない。では何を求めているのかと言われれば、それは松本人志がこれまで視聴者に与え続けてきた「笑い」であり、さらに求めるならばその先にある「狂気」や「強烈な違和感」といったものであり、その「笑いの先にある何か=笑いの根本にあるもの」を現出させる手段として、もしかしたら映画という器が機能するのではないか、という期待がどこかにある。そしてそれはおそらく、「笑い」のみに全力投球する覚悟を前提とする。それは今のところ、他の人たち(芸人以外も含む)には残念ながら期待できない領域であるから、今後もやはり松本人志監督の映画に期待し続けるしかない。なぜ他に期待できないかといえば、彼以降に「笑い」を志した人間の中で、彼の劣化版でない人間は残念ながらひとりもいないからである。いまだ明確に違う方向性を打ちだした者はいないし、「笑い」のレベルで匹敵する者はあっても、狂気の部分が綺麗にろ過されてしまっている。僕は今の若手芸人たちのネタも大好きだが、しかし彼らはみな、松本人志の幻影を背負い続けていると自ら感じていると思う。

そしてさらにひとつ、他の人らに期待できぬ現実的で夢のない理由を挙げるとすれば、「笑い」しかない映画を撮ることを許される人間は、立場上彼をおいて他にいないからである。日本映画の世界ではすでに「笑いでは観客動員数を稼げない」というのが、北野武映画(お笑いよりシリアス路線のほうが概ね評判が良い)により証明されてしまっていて、「笑い」を主軸に置いたものは非常に作りにくい制作環境にあると想像される。本作の方向性を見るに、すでに松本もその「号泣至上主義」の流れに飲みこまれてしまっているように感じるが、だとしたら彼より知名度の低い映画制作者たちは、自主映画レベルのスケールでない限り、「笑い」のみを追求することはまず許されないと見るべきだろう。逆にいえば彼が先陣を切って開拓してくれない限り、この状況はきっと変わることはない。しかしこの先チャレンジを続けていくには、さすがの松本人志でも映画界でのとりあえずの実績が必要となる。そのためには「泣き」を入れなければならず、しかしそちらに行ってしまうとまた「笑い至上主義」路線の開拓は遠のいてしまう……。とんでもないジレンマに陥っているように見えるが、それはどこの業界にも存在するジレンマでもある。特に不景気になってくると、実績ばかりが重視されるので世知辛い。

過去テレビでどんなにお笑いブームがあろうとも、その風はいっこうに映画界には届かなかった。今やテレビドラマや漫画原作の映画化も多く、業界間の垣根はすでにかなり取っ払われているようにも見えるが、それは主に「泣き」「感動」方面の出来事であり、まだまだ「笑い」は日本の映画ファンに届いていない。と声高に叫んだところで、「誰も求めてないよ」と言われそうだが、それでも突破してくれるのが松本人志だと期待する。彼がテレビで、多くのお笑いファンを育て上げてきた(僕も含む)のは間違いないのだし。