お笑いライブ評
大人びた落ち着きと子供のようなせわしなさ、オーソドックスな安定感と発想の飛躍がもたらすスリル、動きや言いかたによるベタな笑いと独特の言語センスが生み出すシュールな笑い――ダイアンの二人ほど、あらゆる二律背反の要素を自然とあわせ持っている芸人…
この二時間強の長篇を見事にやりきったことで、空気階段の評価は各段に上がるだろう。 全体を通した連作短篇的な伏線の回収など、構成の巧みさは確かに褒めやすい要素だが、そこは構造に理解のある作り手ならばできてしまう部分なので、改めて絶賛する必要が…
お笑い芸人は、一般に「ネタ」で世に出て「キャラ」でブレイクすることになっている。しかしこの二つを両立するのはそう簡単なことではなくて、もしかすると二律背反であるのかもしれないとすら思う。そしてこの両者の割合は、時代によっても少なからず変化…
ラジオの面白い芸人を信頼している。それはエッセイの面白い小説家が信頼できるのに似ている。もちろんエッセイと小説は違うし、ラジオのフリートークと漫才やコントも別物だ。 その間には、「ノンフィクション」と「フィクション」という決定的な区別が存在…
共感を前提とした「あるある」から、常識という名の大気圏をいつの間にか突き抜けて、「ないない」という未知なる宇宙空間へと飛び出してゆく。金髪短パンピンク男ZAZYの笑いには、どうやらそんな「突破力」がある。 元日の『ぐるナイおもしろ荘』出演と、そ…
何かを見て「人生を感じる」ということが時にある。芸術でもエンターテインメントでも一本の木でもいい。何かを見てそこに人生を感じたのなら、そこには何かしらの「圧倒的なリアリティ」があるということだ。「リアリティ」とは、それが「現実そのままに見…
「世界観」という言葉が安売りされるようになって久しい。何かを評するとき「世界観がある」といえば、本来圧倒的な褒め言葉であるはずなのに、いつからかそれは、中身に美点を見出せなかったものを苦し紛れに褒める際に持ち出されるお手軽便利な言葉になっ…
「くだらなさ」の中にある「本質」。「本質」の中にある「くだらなさ」。それらが入れ替わり立ち替わり現れ、観る者の価値観の壁を叩いては逃げてゆく。その揺さぶり方は常に悪戯心にあふれ、ピンポンダッシュ的なスリルを伴う。尻尾を捕まえようと思えば捕…
圧倒的に「純度」の高い笑いの空間だった。「純度」というのは、たとえば「純文学」や「純喫茶」というような意味における「純度」であり、言うなればこれは「純コント」である。 「純度が高い」というのはつまり、ここには笑い以外何もないということだ。い…
お笑いライブを観に来る観客の多くは、もちろん笑いに来ている。笑うために来ている。そういうことになっている。しかし本当にそれだけなのだろうか。もしかしたら怖がるために来ているのかもしれない。何を? 表現者が見せてくれる、自分とはまったく異なる…