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『M-1グランプリ2022』決勝感想~ウエストランドが果たした闘争領域の拡大~

(※これは分析ではありません)

そう冒頭から言い訳したくなるくらいに、今回優勝したウエストランドの漫才は、あらゆる方面の痛いところを突いていたように思う。そしてそれがいちいち面白さにつながっていた。その構造については、このあと個別レビューのパートで考えたい。

ついでなので野暮を承知で言い訳を続けると、個人的には分析しているつもりはあんまりない。たまに記事を読んだ人から「鋭い分析ですね」とか言われることもある(滅多にない)が、そのたびに「これって分析なの? そんなことより読んで面白かったかどうかが知りたい……」と思ってしまったり。

笑いが分析不可能なことなど百も承知で書いているのだから、せめてできることはといえば、書いているほうも読んでいるほうも面白いと思えるものを書くしかない。では面白さとは何かといえば、もちろんそんなものはわからない……。ならばできることは、大会を見て自分が考えたことを書くしかない。できればそれが単なるネタの分析に留まらず、何かその先へ、読んだ人が自分の日常や仕事に引きつけて、何かを考えることにつながってくれるといい。

そんなことを思いながら毎回書いている――とでも言いたいところだが、もちろんそこまでは考えずに書いている。ただ自分の思考を整理するためだけに書いているのかもしれない。どうせこんな前置きは誰も読んでなくて、このあとの個別レビューを最初からやればいいのに、と思われているのもわかってる――。

こうして妙に言い訳がましくなっているのも、ウエストランドの漫才に当てられたせいかもしれない。だとしたら彼らの思う壺だ。見事というほかない。作品から何かについて考える種をもらえるというのは、いつだってありがたいものだ。

というわけで今年は、特に優勝者にスポットを当ててレビューをすることになる。それこそ近年は、プロの芸人が感想を語ることも普通になってきているし、単なる分析レベルのことは誰でもやっているので、客観的に見て誰にでも感じられるようなことは、特に書く必要を感じないというのもある。

以下、登場順に個別レビューを。


【カベポスター】
大声大会で、大きな声では叫びにくい発音を見つける。そこにひとつの発見はあるのだが、正直驚きとまではいかず、発見としてちょっと小さい感は否めなかった。

後半は、しりとり制を導入するというテコ入れによってタイミング良く展開を作っていたが、これは「展開のための展開」という作為的な感触が強く、飛躍とまではいかなかったように思う。

こういうのをまさに「分析」というのだろうか……?(気にしすぎ)


真空ジェシカ
設定は「シルバー人材センター」だが、設定はなんでも良さそうな漫才ではある。

とにかくボケ数が多く、観ているほうはその間違い探しに追われることになる。そういう意味ではゲーム的とも言えて、いつのまにか観客を「いち早く間違いを見つけた奴が勝ち」というルールに巻き込んでいくというのが、彼らの狙いというかスタイルになっている。おかげで観ているほうも、自動的に前のめりになるという構図。

相変わらずワードセンスが素晴らしく、特に「六法全書の同人誌」のような言葉の背後にあるイメージの膨らみが凄い。いったい誰が、なぜそのようなものを作っているのか。そして誰が、なんのためにそれを買うのか。そのぶ厚さもさることながら、どの法律がどうパロディ化されているのか。

もちろん彼らはそんなことに触れることもなく、高速で次の展開へ進んでいくので、これは点数につながる部分では全然ないのかもしれない。だがこういうひとつひとつの言葉選びが文体を作りスタイルを作っていくということを、改めて思い知らされる。

今後勝つためには、彼らがこだわり抜いている細部よりも、より大きな構造を導入し優先させる必要があるのかもしれないが。


【オズワルド(敗者復活枠)】
まず驚いたのは、敗者復活戦と同じネタをやったこと。
いやそれ自体はあることなのだが、敗者復活戦では昨年のネタに比べるとだいぶ劣るように感じたので、彼らは決勝用にとっておきのネタを温存してあるものと勝手に思い込んでいた。

正直、敗者復活戦では令和ロマンがネタの質も会場のウケも飛び抜けていて、知名度の上乗せがあってなんとかオズワルドに票が集まったというふうに見えていたので。

ネタ終了後の松本人志との会話を聴く限り、あまりネタのストックがなかったということなのかもしれない。彼らはかなり『M-1』に賭けている印象があったので(それが必ずしもいいことだとは思わないが)、そこはちょっと意外ではあった。


ロングコートダディ
一本目は「マラソン世界大会」という設定だけを中心に置いて、あとは二人でボケを交互に繰り出しまくるという笑い飯方式。動きにしろ言葉にしろ、ひとつひとつのボケの精度が高く、展開も良く練られていた。

その妙が最も感じられたのが、審査員も指摘していたように、「太ってる人」というごく単純に見た目を指摘するだけの平凡なフレーズが投入されるタイミング。これによって単なる言葉選びだけでなく、それをどことどこのあいだに配置するか、受け手が何を期待しているところに対して投げ込むかといったところまで、しっかり考えられていることがわかる。

置く場所によっては、トリッキーな言葉よりもなんでもない普通の言葉のほうが、人の心をすっかり捉えてしまうというのが面白い。

審査員からは、ネタ時間を少し余らせているとの指摘もあったが、中途半端に終わっているのならまだしも、円環構造でしっかり完成しているネタなので、そんなことはまったく問題ならないと思った。むしろ終始時間ばかり気にしている漫才のほうが楽しめないのではないか。

二本目は、江戸時代に行きたいのにどうしても去年にしか行けないタイムスリップ設定。

実質的には江戸時代と現代のどちらにも見えるアクションを考える大喜利のような展開で、印籠とマリトッツォを同一視させるあたりは見事だった。

一本目に比べるとやや派手さに欠けたかもしれないが、最終決戦にふさわしいクオリティはあったと思う。


さや香
一本目は「老化」をテーマに、その基準年齢のズレから生じる様々な不具合がどんどんこじれていく展開。

とにかくボケの精度が高く、後半に向けて盛り上げていく展開もスムーズで理想的。

「佐賀は出れるけど入られへん」あたりの言いまわしも絶妙で、特に妙な言葉を使っているわけでもないのに、こちらが想定していたひとつ先の状況まで言い当てられているような、不思議と腑に落ちる感覚がある。

二本目も、「男女の友情」を主題に、その解釈の違いが問題を生み出していくが、こちらは最終的にそのズレがズレに留まらず、立場を逆転させるところにまで至る。

この逆転劇は、最終決戦のような僅差の戦いになればなるほど、評価する側にとっては加点ポイントになりやすいかと思った。しかし案外そうはならなかったのは、あるいはその計算がやや透けて見えているように感じられたからかもしれない。

優勝してもおかしくない充実の二本であったと思う。


男性ブランコ
「音符運び」という、物をあえて表層的な「形」として捉える設定は、バカリズムの「都道府県の持ちかた」を思わせる。

そのうえで音符を武器化して、それに攻撃された際のリアクションで見せるあたりは、見えない昆虫と戦うインポッシブルを思い起こさせもする。

だが前者の「静」と後者の「動」の部分を組みあわせたところに大きな意外性があり、正直彼らにここまで「動」のほうの実力があるとは思っていなかった。審査員も口にしていたように、まさに音符の軌道が見えるようだった。

彼らはすでに独自の世界観を持っているので、正直こういう大会における評価は気にする必要のないおぎやはぎタイプであると思う。

キングオブコント』におけるシソンヌがそうであったように、優勝したら優勝したで「そりゃそうだろうな」と思うだろうし、優勝できなかったらできなかったで、「そりゃそうだろうな。でも別にそれでいいじゃん、面白いんだし」と思う。

つまりその実力のほどを証明するという意味では、順位とは無関係に成功と言っていいのではないか。


【ダイヤモンド】
日常で使う日本語の成立過程を考え直すその視点が面白く、「不自然ローソン」「農薬野菜」といった言いまわしには膝を打つものがあった。

ただしその羅列だけではさすがに飽きが来てしまい、展開、進化、飛躍をどうしても期待してしまう。


【ヨネダ2000】
「イギリスで餅つき」という、まるで対義語を組みあわせたような不条理設定。

不毛な繰り返しの動作が、独特のグルーヴを生み出していくその様は、テクノのようなミニマル・ミュージックを思わせる。メロディよりもリズムで組み上げられた癖になる世界観。

見た目はコントなので漫才大会の採点者泣かせなネタであり、実際審査員にも困惑が見られたが、それもまた彼女らにしてみればしてやったりといったところだろう。

個人的に好きな世界観ではあるのだが、頻繁な繰り返しに耐えるほどの強度があるかというと、そこまで不条理な言動でもないと感じる瞬間もあって、もっとぶち壊してほしいという気にも少しなった。


【キュウ】
もっとインパクトのあるネタもあるのに、なぜこれを持って来たんだろう……という疑問はある。

たしかに間を存分に生かした語り口はやはり魅力的だし、彼ららしい日本語遊び系のネタではあった。途中、「全然違うものを二つ挙げる」というお題の中に、「二つのあいだに共通点を見つけていく」というルールを発見するまでは良かった。

だがそれが結局、ねずっちの「整いました」と同じ構造だというところまでいってしまうと、単に上手さだけで笑いにつながらないまま終わってしまうという、ねずっちとまったく同じ問題に陥ってしまう。

いちおう「ねずっちのパロディ」というイメージなのだとは思うが、実質的にはほとんどそのまんまなので、そこからもうひとつひねらなくては、パロディとしては成立しないのではないかと思った。


ウエストランド
2020年に彼らが出場した決勝の感想で、僕はこんなことを書いていたらしい。

負け組男の偏見や妄想を世の中への怨嗟にまで高めて吐き捨てる井口のスタイルは、個人的には以前から好きなのだが、その標的が女性である場合、当然と言えば当然だが女性受けがすこぶる悪いような気がする。

radiotv.hatenablog.com

ウエストランドの漫才の本質は、基本的に当初から変わっていないと思っている。ではいったい何が変わったことで今回は優勝できたのか。それを二つの方向から考えてみたい。

まず一つめは、「彼らの漫才が標的とする対象の変化」だ。だが標的の変化は、逆サイドにある「自身の立ち位置の変化」とも関わってくる。両者の変化は連動していると言っていい。

上に引用したように、少なくとも2020年の大会では、井口の毒舌の対象は、自分を恋愛対象として認めてくれない「モテる」女性たちだった。視点を変えれば、それは井口が自身を「非モテ」の位置に置くことによって、自動的に定まった目標とも言える。

だが今回はその対象が、いわゆる「リア充」にまで広がったように見えた。「モテ」は「リア充」に含まれるが、後者のほうがカバーする範囲が大きい。これはつまり彼のなかにある闘争の軸が、「モテ←→非モテ」から、「リア充←→非リア充」という関係性に置き換わっているということなのではないか。そしてそれは実のところ、昨今の世の中の動きとも連動しているように見える。

それはもしかすると、以前に比べてモテないこと自体に悩む人が減ってきているからかもしれない。しかしそれは相対的に割合が減っているというだけで、実際に数が減っているわけではきっとない。

正確にいえば、仕事や生活、健康上の問題など「充実していないリアル」の領域が増えすぎた結果として、「非モテ」の領域が減ってきているというか、「非モテ」を気にするどころではなくなっているというか。それはもちろん、歓迎すべき世情ではないわけだが、事実として。

いずれにしろ、結果として毒舌の的が広がったことによって、当初の「井口が一人称で個人的な不満をぶちまける」という形から、「井口がみんなの思っていることを代わりにぶちまけてくれる」という状態に、発信元のほうのスケールも自動的に拡大したように思える。主語が「僕」から、いつのまにか「我々」になったような。

それは発言に対する共感が増すということでもあるし、その発言が少なからず客観性を帯びるということでもある。結果として私見を述べる井口のうしろに、援軍の姿が見えるようになった。

そして二つ目は、漫才の形式の変化だ。今回はこれまでの井口がまくしたてるスタイルに、「クイズ形式」という構造がひとつ乗っかった形になっていた。

これはもちろん、たいして内容に影響を与える変化ではない。料理はそのままで、器を変えた程度のものであるように見える。

しかしこの取ってつけたような些細な構造の変化が、思いのほか全体の印象を大きく変えたのは間違いない。ではいったい何が変わったというのか?

クイズというものには必ず、「正解」と「不正解」がある。それでいうと井口の解答は、すべて「不正解」である。相方の河本も、しつこくそう言って解答を撥ねのける。

つまり井口の意見は、根本的に間違っているということになる。どんなに言いかたを変えようが何度繰り返そうが、「不正解」であるという事実はいっさい揺るがない。

たとえ井口がどんなに正論を吐いていたとしても、それは結局のところ「不正解」にしかならないしなれない。だがそれがどこまでいっても絶対的に「不正解」であるという事実が、それを聴いている観客にとっては、井口に共感する際に感じる後ろめたさを薄める格好のエクスキューズになる。

「正解」は間違えていてはならないが、どうせ「不正解」ならばどのように間違えても自由だ。これは詭弁に聞こえるかもしれないが、「間違ってもいい」と言われれば、人の発言は各段に自由になる。

それでいて、受け手がどんなに邪悪な意見に共感してしまったとしても、それが必ず「不正解」だと結論づけられることによって、最終的にはいくばくかの安心感を得て正気に戻ることができる。

つまりこのクイズ形式を採用したことにより、彼らは発言の許容範囲を拡大することに成功した、ということになるのではないか。

そして井口の言葉は、その対象を拡大したことにより、もはやどこに向けて放たれてもおかしくない状況に入ったと言っていい。それはもはや、特定の敵に向けて放たれるものではない。なぜならば何事も何者も、正面から見れば素晴らしく理想的なものであっても、後ろから見れば間抜けであったりするものだからだ。

つまり誰が誰を笑うかは、関係性次第というわけで、格好良すぎて笑われる者だってもちろんいる。誰かのことを笑っている人間が、常に笑う側に安住していられるとは限らない。もちろん井口にだって、他人を笑っている自分自身を誰かに笑われる自覚も覚悟もあるだろう。

このことからも、彼の毒舌を単なる「悪口」と批判するのがお門違いであるのは明白だ。物事や人間の滑稽な側面を発見し、それを面白く伝えるのがお笑い芸人の能力であり役割であり仕事なのであって。「全面的な否定」と「一側面の発見」を混同してはならない。

――などなど、考える種の多い彼らの優勝ではあったが、ひとことで言えば純粋に面白かった。それだけを素直に最初に言わないものだから、こういうのを「分析」と言われるのだろうなぁと改めて思いつつ、かといって改める気もなく、気楽に読んでいただければそれで。


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