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『笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号』~模倣困難なタモリイズムの継承~

長寿番組の32年間を締めくくる大団円であるというのに、実のところ「ダウンタウン爆笑問題の邂逅」という裏テーマの方にばかり気を取られていたのだが、結果としてもっとも印象に残ったのはSMAP中居正広のスピーチだった。だがそうした思いがけぬ山場が何の前触れもなく訪れる瞬間こそが生放送の醍醐味であり、実に『いいとも』らしい魅力であるとも言える。

3/28にここに書いたような、不仲説芸人揃い踏みのカオティックな構図は、おそらくは番組側の配慮をすっ飛ばすようなとんねるずの悪ノリ(もちろんお笑い的には良い意味での悪ノリ)により実現したわけだが、さすがにその場で意気投合して大きな笑いの渦を生み出すといった化学反応というまでには至らず、つかの間のスリリングな空間を提供したというに留まった。

特に松本人志に関しては、「太田光の言うことでは絶対に笑わない」と決めたうえでこの場に臨んでいるようにも見受けられた。いやそれが悪いというよりは、「やっぱりこの人は嘘がつけない人なんだな」と再認識したというだけなのだが。「ここで簡単にすり寄るような人には独自の笑いなど生み出せない」という考えと、「こういう異文化交流のチャンスに対しては常にオープンな態度で臨まなければ、マンネリ化は防げない」という考えが均等に頭に浮かんだ。どちらも正解だと思う。

だがそんな中でも、ダウンタウン浜田と爆笑問題田中の両ツッコミには、混乱を収拾するために協力することもやぶさかでないように見える場面もあって、やはりコンビの舵はツッコミの方が握っているのだなと。とりあえずは雪どけの第一段階、というレベルだろうか。少しとけたあたりでまた気温が下がり、再び凍ってより危険なアイスバーンが出現する、なんていう降雪の翌朝のようなことも充分にあり得るが、これが何かのきっかけになることを願っている。それにはやはり、松本側の人間でありながら今や爆笑と普通に共演している、今田、東野、千原ジュニアあたりの助力が不可欠だとは思うのだが。

そして個人的にはこの日の山場であり、本当に素晴らしかったのが中居くんのスピーチだった。この文章の一行目では無理して「中居正広」と書いたが、中居くんの場合はなぜか「中居くん」と書かないとどうにも落ち着かない。そういうところにこそ彼の魅力があると思うのだが、レギュラー陣のスピーチの中でも、彼のスピーチは群を抜いてある種の「タモリイズム」を感じさせてくれた。それは逆に言えば、本職芸人の中で、「タモリイズム」を彼ほど濃厚に感じさせてくれる人が誰もいなかったということでもある。

そもそも「ポストたけし」と呼ばれる芸人は、太田光をはじめ数多く存在しているが、「ポストタモリ」と呼ばれた芸人はいまだ皆無である。あるいは瞬間的に存在したとしても、メジャーフィールドで生き残ることができている「ポストタモリ」はひとりもいない。なぜならばタモリの芸風は、本質的にアンダーグラウンドであるからだ。

この日の中居くんのスピーチは、タモリとの思い出話を語る前半から中盤への感動的な流れが、後半もその穏やかなトーンを保ったまま、いつの間にか笑福亭鶴瓶をdisる内容(=笑い)へとシームレスに切り替わっているという、非常に文学的な展開を見せた。「文学的」というのはつまり喜怒哀楽の感情が未分化であるということで、人間の感情というのはそもそも、心の中に発生した時点では、喜怒哀楽にハッキリと分かれているようなわかりやすいものではない。笑いの中にもいくらかの哀しみがあり、感動の中にも数パーセントの滑稽さがある。

しかしその喜怒哀楽が混じり合った感情を、言葉にして表現するのはいつもひどく難しい。特にこの日のこの番組のように、残念でありながらも感謝の気持ちが湧き起こり、なおかつ長寿番組をやり遂げた功績に祝いの言葉を贈りながらも、これだけの面子が集結した異様な状況を笑いに変えたいというような、あり得ないほどに複雑な感情を言葉にすることは、どう考えても恐ろしく難しいミッションである。

だがその喜怒哀楽がシームレスに繋がる感触こそが、タモリの芸の本質にある「文学性」であり「タモリイズム」であると思う。タモリ芸の真髄とは、常に究極の真顔でこの上なくふざけた言動が繰り出されるところにあり、それはまさに「喜怒哀楽が未分化のままに表現されている」ということだ。通常ならばザルで漉して「笑い」と「笑い以外」に振り分け、笑い以外のものは不純物とみなして捨てるという人工的な脳内の手順を、あえて省いて混じったまま、複雑なまま提示する。だがそれはけっして手順の簡略化や手抜きを意味しない。

ほとんどの人は、感情を喜怒哀楽に分類することがすっかり習慣化した結果、何も考えずとも、無意識のうちに感情をわかりやすく分類してから表に出す。それは感情をひとつの方向へと特定しなければ物事を結論づけられぬからで、そうしないと心がフワフワと落ち着かぬからである。喜怒哀楽の入り交じった複雑な感情というのは、人をひどく不安にさせる。だが生の感情というのは常にそうしたフワフワとしたものであって、そこにこそ嘘のない感情と真の面白さがある。

この日の中居くんのスピーチを聴いて、実はこの人こそが、数多いるレギュラー陣の中で、もっともタモリの薫陶を受けてきた人なのだと確信した。喜怒哀楽がシームレスに繋がったまま表現されるということは、いつ何をしでかすかわからない、予測不能な突拍子もなさをその人が持っている(少なくとも見ている側からはそのように見える)ということで、それをひとことで言い表すならば「可愛気」ということになるのではないかと思う。表面的な感触はまったく異なれど、その魅力はこの二人に間違いなく通底している。

先達の背中を見て学び、触発され、そして引き出された稀有な能力を、「今では僕もこういうことができるようになりました」と卒業論文のように提示する。中居くんのスピーチは、タモリという恩師への最大の恩返しであるように思えた。