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『しんぼる』/松本人志

明らかにあらゆる面において、前作『大日本人』を大きく下まわる内容。『大日本人』が順当に松本の平均点を刻んだ作品であったため、よもやそれ以下のものが繰り出されてくるとは、正直思っていなかった。

「ベタ」と「シュール」、その一挙両得を狙った作風は、非常に中途半端な形で虻蜂取らずに終わっている。その両者を狙うスタンスは、最近の北野武映画を思わせる。

「密室」と「覆面レスラー」というシュールな設定情報から、当初はできる限り笑いを排除した方向性なのかと思っていた。事実、物語がはじまってしばらくの間は、いかにも真っ当な映画的光景が続き、いよいよ松本人志も笑いを捨てたのかと思わせる。だがそれにしては映像的に特に魅力的な部分があるわけではなく、単に「映画っぽい映画」でしかないシーンが続く。それが逆に「これは笑いへの前フリなのだ」と観客に気づかせる。むしろそれだけの効果しかない退屈なシーンが続く。

だが本当の問題はその後に来る例の密室シーンで、ここで驚くほどベタなひとりドタバタ喜劇が延々と続くのだが、これが非常にドリフ的で浅い。そのベタ具合は、『監督・ばんざい』あたりの北野映画におけるスベり方に近いものがあり、笑いを狙いすぎたモノボケの連発に辟易する。おそらくはわかりやすさ(と言語を越えた国際的評価)を狙ったものと思われるが、アクションや表情を中心としたベタすぎる笑いは明らかに松本に向いておらず、この路線ならばダチョウ倶楽部にやらせたほうがまだなんとかなるはず。密室におけるアイディアの数々も、練り不足で納得の行かないものが多い。いずれにしろ松本がやる必然性のある方向性だとは思えず、この手の保守路線は志村けんに任せておけば良い。

そして物語後半には、前半の前フリと密室のシーンを受け、ある種のメッセージ性を感じさせる不条理な世界へと突入する。しかしそのシュールさが非常に中途半端で、デヴィッド・リンチほどわけがわからないわけでもなく、わかる範囲内での不条理っぽさに留まっているのが歯痒い。シュールな世界観をやるのならば、最低限観客に違和感を持ち帰らせなければならないが、この作品を観た観客は、「なんとなくそこらへんにあるものを全部並べてみたかったんだろうな」という程度の感想しか持てないだろう。松本の考えていることが、「たぶん神もそれぐらい適当にこの世界を作ったんじゃないか」ということであるのは理解できるしある程度共感もするが、そのくらいの認識はすでに観客にとって想定内であって、彼独自の発想ではない。すでにあらゆるジャンルで提示されていることだ。そこから先の世界を考えるのでなければ、この手のシュールな世界観に安易に手を出すべきではない。

ストーリー展開にも、実は「物語」と言えるほどの必然性があるわけではなく、前評判にあったように「二つの世界がどう交錯するのか」といった構造的楽しみは皆無で、単に繋げたというだけの話である。「まさかそれがこうなるとは!」とか「それがそうなってこうなるのか!」といった驚きはなく、単に「フリ」に対して「オチ」があるというくらいでしかない。

せめて要所要所できっちり笑わせてくれれば、細かいことなど気にならないし、冒険するならばもっと思いきりやって大胆に失敗してくれれば、その前向きな姿勢に納得がゆく。彼のこれまでの作品には必ずどちらかがあり、だからこそ時に理解できぬことがあったとしても、多くのファンがついてきたのだと思う。「ベタ」にも「シュール」にもなりきれぬこの中間的で思いきりの悪い作品に、居心地の良さを見出すファンが果たしているのだろうか。

場所は渋谷、しかも公開初日の昼の回であったにもかかわらず、客席は半分程度の入りであった。雨の影響もあるだろうが、あれだけの過剰宣伝を繰り返してこの有様では、あまりに寂しいと言わざるを得ない。もちろん「初監督作品」という話題性が大きかったとはいえ、『大日本人』のときは満席続きでなかなか席が取れなかったのに。

だが逆に言えば、前作あるいはあの予告編を観て「今回は観なくてもいいかも」と思ったファンが予想以上に多かったということでもあり、なんだかんだ言っても観客の嗅覚とは侮れないものだ、という思いも。