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ラブレターズ単独ライブ『COSMO』~個々の星々が織りなす世界観が「現実」を「小宇宙」に変える~

「世界観」という言葉が安売りされるようになって久しい。何かを評するとき「世界観がある」といえば、本来圧倒的な褒め言葉であるはずなのに、いつからかそれは、中身に美点を見出せなかったものを苦し紛れに褒める際に持ち出されるお手軽便利な言葉になってしまった。

では褒め言葉として本来使われるべき「世界観」の正体とはいったいなんなのか。ラブレターズ単独ライブ『COSMO』は、観客それぞれにそんな根源的な疑問を投げかけてくる。

――というようなことを考えたのは実のところ終演後の話で、観ている最中はただただ面白い。小難しいことなど何もないが到達点は深い。次から次へと目の前に提示される笑いを捉えるのに必死で、観る側は全体のことなど考えている場合ではない。だがそれこそがお笑いの、エンターテインメントの、芸術の、受け手が辿るべき理想的なプロセスだろう。目の前の笑いに集中させてもらえなかったとき、観客は仕方なく全体像に思いを馳せる。全体というのはあくまでも部分の積み重ねによってできているものであって、最初から全体が気になるものは、個々の部品の精度が甘い。

日常的な「あるある」的状況を激化させ、そこに「ないない」的要素を思い切ってぶち込むことで生まれる衝突のエネルギー。どこを掘り下げれば笑いが湧出し、どこを掘るべきでないかを見極める取捨選択のセンス。掘ると決めたら執拗に掘り下げ、帰路が危うくとも突き進む勇気。そしてやはり「怪優」溜口佑太朗の、「演技」ではなくあえて「挙動」と呼びたくなるような、狂気性にあふれた一挙手一投足。今回試みられた全体のチャレンジングな構成以前に、それら部分部分のクオリティの積み重ねこそが、彼ら独自の「世界観」を組み上げている。

「世界観」とはつまり、「全体を通す大きな(あらかじめ用意された)一本の軸」のことではなくて、個々の部品の中にある揺るぎない軸が積み重なって、結果として一本になるものなのではないか。だから一つでも軸の抜けた部品が混ざっていれば、「世界観」はいとも簡単に崩れてしまう。むろんその危うさも含めて魅力的に映るのが「世界観」というものであり、それは単に「外枠」のことを指す言葉ではなく、むしろ「中身」をこそ指し示している。もちろん「全体のまとまり」というような、保守的なイメージの言葉でもない。ラブレターズのライブは、キャッチーだがむしろ先鋭的だ。

単独公演初日、真の意味でその「世界観」に包み込まれるようなライブ体験だった。ここにはラブレターズにしか表現できない、独特の因果律がある。個々の部品=星々を貫き通すその因果律が彼ら独自の「世界観」を作り上げ、「現実」を「小宇宙」に変える。