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『ワイドナショー(ワイドナB面)』2015/6/14放送回~先生は、見つけられるのを待っている~

話を聞く気のない人には、何を言っても通じない。自分のちっぽけなプライドを守ることだけに汲々として他人の意見に耳を塞いでいる人間には、どんなに有益な情報をどんなに親切に伝えようと、すべてがはじかれてしまう。

それは「人」の問題ではなく、あるいは「時期」の問題なのかもしれない。受け手のタイミング次第で、同じ言葉でも響く場合と響かない場合がある。世間のイメージに反して、往々にして若い人ほど、他人の意見に対して無条件に反発しがちなもので。それは一見攻撃的に見えて、知に対してはむしろ閉じた、守備的な態度である。親に対する反発というのも、その一種かもしれない。

もしくは、「レベル」の問題。自分が初心者のころに上級者からもらったアドバイスが当時まったくピンと来なかったとしても、自分が何年後かに中級者レベルにまで到達してみると、急にその意味するところがストンと入ってきて感謝する、というようなことは少なくない。ある段階まで達してみると突如としてパーッと視界が開ける、というような体験は、あらゆる物事において起こる。視界が開けている人から、まだ視界が開けていない人へのアドバイスは、受け手にとってまだ見たことのないものを与えることになるから、それを理解させることはリアリティという点においてひどく難しい。

この日の『ワイドナB面』の議題に、【「仕事は見て盗め」指導法に賛否】というものがあった。《確かに見て学ぶこともあると思いますが、ちゃんと指導してほしいこともあります》という視聴者のメールから、自然と学習態度についての話になった。

自らの先生として紳助・竜介を挙げ、《この人からなんか学びたい、って勝手にこっちが決めて吸収するもの》と語った松本人志の言葉には、学びという行為の本質が見てとれる。たしかに、親も先生も上司も基本的には選べない以上、学び手にとって指導者というものは、選択の余地がないものだという感覚が根本にはある。だから学生時代、数学の先生が嫌いだから数学を丸ごと嫌いになってすっかり苦手科目になる、なんてことが頻発するのだけど、それをやってると自分の得手不得手まで運命に流されることになる。

だからそこで大切になってくるのは、単純に嫌いな先生と科目を諦めるということではなく、そののちに武田鉄矢が言った《先生を見つける能力っていうのが人生にはある》ってことで、何も目の前に据えつけられた担当教師だけが先生ってわけじゃない。より視野を広げてベストな選択肢を見つけるために参考書や問題集というものが数多存在するわけで、あれは単に本を選んでいるのではなく、本質的には人(=書き手=先生)を選んでいる。

――と、受験生にとってはそれだけでも面倒な手間だとは思うが、こんなのはまだまだ楽な話で、本当に大変なのは、同じく武田鉄矢が言ったように、《社会に出てからの闘いは、教科書を自分で作んなきゃいけない》ということのほうだ。何しろ世の中には、答えがないだけでなく、何の科目だかすらもわからない問題ばかり転がっている。そしてその時こそ、本当の意味で「(どこにでも、どこからでも)先生を見つける能力」というものが試されるわけで、それは書店の参考書コーナーに行けば必ず見つかるというようなものではない。もしかしたら、どんなに世界中探し回っても見つかるはずのない幻の先生を探している可能性だってあるのだ。

しかしいずれにしても、何かを学ぼうとする際に必要不可欠な根本姿勢は、やはり「謙虚さ」につきるのだと思う。人の意見を聞き入れるというのは、自分がそれまで大事にしてきた形を他人に壊される覚悟を要する。さらにはその際に「知ったかぶりをしない」ということも重要で、知らないことに知っているふりをした場合、相手はそのことについてはもう教える必要がないと感じる。その結果、相手はもう何も教えてはくれなくなるから、知ったかぶりをする人間は永遠に、知らないことを知らないままに終わることになる。

学びの敵は、つくづく「虚勢」である。つまり「学習能力」というのは、ほとんど「学習態度」のことなのではないか。