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『ヨルタモリ』2015/5/10放送回~夢も明日も向上心もないグラサン越しのユートピア~

人の話というのは不思議なもので、相性のいい触媒を得ると面倒な手続きなしに一気に深いところまで行ける。文章とは異なる会話ならではの面白さとは、まさにそういった「打てば響く」関係がもたらしてくれるものだ。この日の『ヨルタモリ』にゲストとして訪れた草彅剛はまさにタモリにとって恰好の触媒であり、いつも以上にリラックスした雰囲気の中で、番組はじまって以来タモリの根底にある哲学がもっとも浮かび上がる回となった。

タモリといってもこの番組の設定上はジャズ喫茶店主の「吉原さん」なのだが、タモリでないはずがないのでここではタモリで統一する。念のため言っておくが本当は「吉原さん」だ。「デーモン小暮」が「デーモン小暮」であるように。

タモリイズムの真髄とは、ふざけたことを言っているようで平然と核心を突いてくるところである。むろんその逆もある。彼の中で、「悪ふざけ」と「真実」はシームレスにつながっている。いやつながっているどころか、その二つは実のところまったく同じものなのかもしれない。同じものの両面か、ともすると同じものの同じ面である可能性すらある。

たとえばこの発言はどうだろう。地方から毎週のように上京して来店している吉原さんに対し、草彅剛が「仕事で来ているのか?」と問うと、吉原さんは「用事で来ている」と答える。それに対し湧き起こる失笑に憤慨した吉原さんは、こんな台詞を口にする。タモリで統一するとあれほど言ったのに、吉原さんがどうしても前面に出てきてしまうが気にしないでほしい。肝心なのは次の台詞だ。

「俺だって用事の積み重ねで生きてる人間だよ!」

なんて元も子もない言葉だろうか。ほぼ何も言ってないに等しいほどに空虚な言葉だが、それでいて人生のすべてを言い表している! 明らかにふざけているが、間違いなく普遍的な真実だ。いまだかつてこんな当たり前のことを、わざわざ口に出して言った人はいないのではないか。だとしたら、誰もが真実を見逃してたってことになる。だからこれはとても哲学的な言葉だ。これから先、「人生とは何か?」と問われたら、「用事の積み重ねです!」と迷わず答えるべきだろう。バイトの面接すら落ちそうな素晴らしい言葉じゃあないか。

吉原さんは、普段から物事を「ジャズか、ジャズじゃないか」で捉える。ではどんな人が「ジャズな人」なのかという話になると、吉原さんはこう答えた。

「ジャズな人ってのは、向上心がない人」

この時点では、なんとなくニュアンスは伝わるものの、明確な意味はわからない。だがそれは、続く言葉によって明らかになる。

「向上心がある人は、今日が明日のためにあるんだよ」

「向上心がない人は、今日が今日のためにある」

「向上心=邪念てことだよね」

ジャズの醍醐味が即興演奏であることを考えると、まさに人生とはジャズであるということになる。しかしそれを、「今を生きる」的な説教臭いポジティブな言葉ではなく、「向上心がない」というネガティブだがリアルな言葉で表現するところに、どうしようもなく「粋」を感じる。

「ふざけ」と「真実」がいとも簡単に反転したり同化したりするように、「ポジ」も「ネガ」も、「プラス」も「マイナス」も、タモリの中では常に不安定で未確定な要素としてある。マイナスにマイナスを掛ければプラスになるように、そもそもプラスもマイナスも、本来さほど安定した要素ではないのである。普段ポジティブな人間ほどネガティブな事態に陥ったときに立ち直れない、なんてこともよくある話だ。対立する概念が、実は言うほどきっちり対立しているわけではなくむしろ地続きで、端っこまで行ったらひょっこり反対側に出る、というような可変的な感覚は、その場その場のアドリブ芸を追求してきたタモリが元来強く持っていた要素だと思われる。

その他にも、この日は本当に吉原さんの名言連発で、「夢があるようじゃ人間終わり」「(向上心や夢のある人生は)悲劇的な生き方」と希望に燃える人々をバッサリ斬り捨ててみたり、「(夫婦は)いいとこ見ようと思ったらいいとこしか見えないし、悪いとこ見ようと思ったら悪いとこしか見えない」「理由があって嫌いになってるんじゃない。嫌いだからいろいろと理由が見つかってくるだけの話」と物事を捉える角度や手順を解き明かしてみたり。とにかくどこもかしこも、いつも以上にタモリイズム全開で、ちょうどゴールデンウィーク明けで五月病に襲われている人(万年五月病の人も含む)には、夢や希望に溢れた励ましなんかよりも、よっぽど心に響く内容だったんじゃないかと思う。

こんな素敵なタモリイズムをいったん身につけたら、一般社会の一般的価値観の中でのうのうと生きるのは、むしろ難しくなるような気もするけれど、だとしたら世の中のほうが間違ってるってことにしたい。