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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第34回更新~『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』~

「あ、俺もラジオ結構聴くよ」そんな甘い言葉に乗せられて好きなラジオの話をすると、思いのほか噛み合わないことが割とよくある。その「噛み合わなさ」の大半は、単純に周波数の違いだったりする。周波数の違いといっても、954と1242の違いくらいだったら何とかなる。しかしAMとFMでは、周波数が違いすぎる。相手にとってのラジオがFMであり、こちらにとってのラジオがAMである場合、そこには何らかの壁が存在する。それがもしかしたら、「モテ」と「非モテ」の境界線なのかもしれない。

もちろん最近は、FMでも芸人の番組が出てきているし、シャレオツな曲よりもAM的な語りを中心に据えた番組も増えてきている。しかしそれでもやはりFMの場合、パーソナリティーを選ぶ判断基準が、「これまでの人生で充分にモテてきた人」である場合が圧倒的に多いような気がする。もちろんそんな基準を掲げているわけではないが、「カップルが車の中で聴く」というFM的状況を想定すると、自動的にそうならざるを得ないのだろう。

そんな「モテ」と「非モテ」の境界線を感じながら、『日刊サイゾー』のラジオコラム第34回を書いた。今回の題材は初心に返って、第1回でも取り上げた『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』である。

【「大モテない先生」の結婚という危機をも容赦なき笑いに変える『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』】

http://www.cyzo.com/2013/11/post_15259.html

この番組の本質的な面白さは、第1回目のコラムでも取り上げたように、パーソナリティーの3人が描くフォーメーションの流動性にある。誰が誰を笑うのかという構図が、シチュエーションごとに頻繁に入れ替わり、その運動の中から思いがけぬ笑いが次々と生み出される。

だからこの番組内では、誰が「モテ」で誰が「非モテ」かというのも、その時々によって微妙に変わる。一時期はやついいちろうが担ってきた「非モテ」の役割を、最近は既婚者の片桐仁が担うことも多い。あるいは結婚できていないという意味で、3人の中でもっともイケメンなはずの今立進がターゲットになることもある。

ラジオに限らず、番組というのは、基本的に一度完成したキャラ設定やフォーメーションを守り続ける傾向にある。もちろん固定することにより積み重なっていく楽しみもあるが、それはやがて馴れ合いとお約束まみれの生ぬるい状況を生み、笑いにとって重要なスリルと意外性は徐々に減退してゆく。ぬるさは安定と同義である。

そのような生ぬるさとは無縁のリスキーな流動性。それこそが笑いの本質であり『エレ片』の面白さだと、改めて思う。