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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第33回更新~『久米宏 ラジオなんですけど』~

「しばらく海外旅行先でのパン食が続いたのち、帰宅して久しぶりに米を食べたときに思い出す人」としてお馴染みの久米宏(馴染み間違い)。『日刊サイゾー』のラジオコラム第33回では、そんな彼の番組『久米宏 ラジオなんですけど』における、「思考のパスサッカー」的なフリートーク術について書いた。

【現在進行形で動き続ける、奇術的トークステーション『久米宏 ラジオなんですけど』】

http://www.cyzo.com/2013/11/post_15127.html

ラジオにおけるフリートークとは、「すべらない話」のように周到に準備された逸話を話す場なのか、それとも文字通り自由に思いつきを並べ立てる場なのか。面白い話を聴いたときもつまらない話を聴いたときも、そういうことをつい考えてしまうのだが、結論から言うと、「面白ければどちらでも良い」という元も子もないことにどうしてもなってしまう。

理想的なバランスは、「ある程度(キーワードレベルで)準備はするが、臨機応変に寄り道や変更が利く」という中間的な状態なのかもしれないが、その程度であっても、本人の想定より話が小さくまとまってしまうというケースが少なくない。文章に関してもそうだが、人間はその成長あるいは教育の過程において、自動的に話を物語っぽくまとめる能力をいつの間にか習得しているもので、かなり適当に散らかして話したり書いたりしたつもりでも、全体を通してみれば意外とひとつのメッセージに落とし込まれていたりする。

実はまとめること以上に散らかすことのほうが難しいと感じる場面も多々あって、若手芸人のフリートークを時に物足りなく感じるのは、「まとめること=オチ」に意識を集中するあまり、散らかすことを怖がっているからなのではないか。話は拡散したり深まったりすることでスケール感を獲得するが、それはスコップで穴掘るのと一緒で、ある程度の幅がないと深く掘ることは難しい。もちろん、幅があれば深く掘れるというものでもない。

幅をもたらすのは知識だが、知識はそのままでは何の役にも立たない。穴を掘るときに使うドリルをイメージしてもらえればわかるが、掘った穴の中で運動を続けなければ物事を深めてゆくことはできない。知識と知識をぐるぐるかき混ぜて動かし続けること。知識と知識の間を右往左往あるいは回転しながら考え続けること。その運動の中からしか面白い話は生まれないし、運動状態を再現できなければ話は途端につまらなく凝り固まってしまう。

久米宏トークには、そのような高い運動性がある。だから面白い。