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『人志松本のすべらない話』2012/6/23放送回~おもしろき こともなき世を おもしろく(晋作高杉のすべらない辞世の句)~

『すべらない話』を観ていると、いつも「そもそも『すべらない話』とは何だろう?」という原点に立ち戻らされる。

もちろんそんなのは単なる言葉のニュアンスの問題であって、面白ければ何でもいいという意見にはむしろ賛成だが、話者が15人にまで膨れ上がった今となっては、もはやその定義はないに等しい。

厳密に言えば「すべらない話」という価値観は、松本人志と彼の周辺にいた数人の芸人が作り上げた空気であり、つまりは松本一人を笑わせることが「すべらない」ということを意味していた。だが今や松本と価値観を共有していないであろう芸人が毎度数多く参戦するようになり、とても松本の笑いの影響下にあるとは思えない芸能人ゲストが客席を占めるようになった。かつては松本が心から笑うことが「すべらない」ことを意味していたが、今や客席の女優や力士たちの笑い声が話の「すべらなさ」を支えている。

だがそれが単純に悪いと言いたいのではない。かといって、悪いと言いたくないわけでもない。こういった「テコ入れ」は深夜番組がゴールデンに進出する際の定石であるし、それによって価値観が外に向けて開かれる、つまり間口が広くなるというメリットは確実にある。マンネリ化を防ぐことができるし、話のバリエーションも確保できるから入り口が増える。しかしもちろん、核心となる価値観のゆらぎは、その価値観を共有し期待していた者にとっては、精度の低下につながる。その一方で、新たな方向性を見出せる可能性もある。ここの案配は本当に難しい。

独裁国家がいつのまにか民主主義国家になっていた、といえばわかりやすいだろうか。というとまるで戦後日本そのものみたいだが、もはやこの番組は松本の独裁国家ではなく、客席も含めみんなで作り上げる民主主義国家になった。君主である松本の顔色を伺う必要がなくなったが、それは緊張感の欠如を意味するのかもしれない。その代わりに番組は、ゴールデン向きの和気あいあいとした雰囲気を手に入れた。それは間違いなくスタッフが望んで手に入れたものだろう。手に入れたぶん失うものもあるのは世の常だし覚悟の上で。

無駄に大きなたとえ話で無用なハクをつけたところで、もう少し具体的な話をしよう。

今回の初参戦組では、渡辺直美の話は浅すぎて予想を越えずはるか手前で着地、猫ひろしは体験としては珍しいがその肝を伝える話術に乏しかった。ジャルジャル後藤は優等生的にこなした感じが、いつも挑戦的に来るネタの姿勢とは正反対で目立たず。恵俊彰はドヤ顔が終始気になるが話は妙な角度から切り込んでくる感じで番組に新鮮味をもたらしていた。オーディションから勝ち上がったベイビーギャング北見は、一本目ですべてを出し切ったというか本当にそれしかない感じで、二本目で早くも、自ら掲げた「ハンサムトーク」というジャンルとまったく無関係な話を持ってきて視聴者の期待を裏切ったのは、戦略として明らかな失敗だろう。

一方で特に面白いと感じたのは千原ジュニアと、MVSを獲得したドランクドラゴン塚地。前者は晦渋な文体と展開で視聴者を煙に巻き、後者は三本とも違うテイストでありながら明快な語り口で会場を巻き込むという、対照的な話術を見せてくれた。

千原ジュニアに関しては、いつもちょっと話を上手くまとめすぎるきらいがあって、その流れの良さが出来すぎと感じられ鼻白むことがある。しかし今回の二本はいずれも長尺で脱線も時制の変化も多く、それでいて脱線かと思いきやきっちり伏線として機能するという、もはやマジカルとも言うべき手つきに気持ちよく翻弄された。途中でこれが今の話なのか過去の話なのか、本題なのか脇道なのか、いい話なのか悪い話なのかわからなくなるような瞬間があって、その行きつ戻りつしながらグルグルと渦を作っていく感じが、海外文学のように力強く聴き手を掴んで引きずり回すタイプの面白さを生み出していた。この聴き手を半歩置き去りにして先をゆく感触は、最近の親切な笑いには最も足りない部分なんじゃないだろうか。

「何を語れば面白くなるか」も大事だが、そこに留まっていては「すべらない」レベルには到達できない。初参戦組の多くは、そういった「元ネタ」のレベルで終わっていた。だがそれを話芸のプロフェッショナルが話すからには、「元ネタ」としての事実よりも、その事実を咀嚼して放たれた「話」のほうが面白くなければ意味がない。

なぜならば、今や「話のネタ」探しであれば、素人でもTwitterFacebookに貼りつけるために汲々とやっているからだ。それらの多くがつまらないのは、それが単なる情報としての「ネタ」に留まっているからで、そうして集めるべくして集められた「ネタ」の数々は、なんの工夫も発想もなく、ただ「ネタ」の力に頼る形でネット上へ放置される。そのレベルの面白さとは、所詮は単なる情報収集能力であって、本人の面白さとはあまり関係がない。

だから話芸のプロである芸人は、必ずその上の段階の「どう語れば面白くなるか」という方法を模索する必要がある。逆に言えば、「つまらないことも面白く話す能力」というのが、テレビでは求められているということだ。極端な話、テレビでは何の変哲もない料理を食べても面白いことを言わなければ使ってもらえない。

つまりどのような文体を手に入れるかというレベルの勝負になってくるわけで、今回の千原ジュニアの話術には、内容を越える文体の力を感じさせるものがあった。実はこのレベルで話術を磨き上げている芸人は意外と少ないのではないか。

『すべらない話』という番組は本来、「何を語るか」よりも、「どう語るか」を模索する場所なのだと思う。