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『ピカルの定理』はなぜ面白くならないのか?

「単純にネタの面白い芸人を集めれば面白い番組ができるわけではない」というのはもうすっかり周知の事実だが、それはなぜかと問われれば、たぶん答えが多すぎて特定することは難しい。コンビ同士の相性や、コントか漫才かの違いに代表される方向性の違い、ファン層の違い、年齢の違いなどなど、主に組み合わせの問題がまず考えられるが、実はそれ以前に重大な問題が手前にある。

それは、「いくらネタの面白い芸人を集めても、その芸人たち自らがネタを作っていなければ面白くはならない」という当たり前の事実である。特に売れっ子芸人を起用する場合、自らコントネタを作るのはスケジュール的に難しいため、放送作家にほとんど丸投げになる可能性が高い。頻繁にテレビに出ているということは、テレビ以外のことはほとんどできていないということで、ネタを作るどころか、ネタの原料となる情報や体験を仕入れる暇さえないというのが売れっ子芸人の現状だろう。

ピース、ハライチ、モンスターエンジン平成ノブシコブシ渡辺直美、千鳥――『ピカルの定理』には、ネタで実力を認められてきた面々がしっかりと顔を揃えている。正直、モンスターエンジンが今どれくらい忙しいかはわからないが、他の面々はいま引っ張りだこといっていいレベルだろう。だからこの番組に、各芸人の持ちネタのクオリティを求めるのは最初から無理がある。

だがそんな状況証拠を並べ立てなくとも、この番組のコントは芸人たちがネタ作りの過程に関わっていない匂いがプンプンするというか、充分に「放送作家くさい」。それは言い方を変えれば「企画書くさい」ということになるのだが、どうも「企画書映え」するコントが多い。それはある意味「プロっぽさ」でもあるのだが、ありがちな設定に型どおりにパーツを当てはめていくという量産体制を感じさせる。

その最もわかりやすい例が、綾部と吉村のボーイズラブドラマ「ビバリとルイ」と、渡辺直美が美少女を演じる「白鳥美麗物語」という、番組の中心をなす二本のシリーズコントだろう。

この二本のコントはいずれも、その出発点に「価値観の転倒」がある。いや、むしろそれしかないと言ってもいい。前者は男女の恋愛関係を「男男」でやるという、後者はデブでブスな女が美少女と呼ばれ、美少女がブス呼ばわりされるという、明確な価値観の転倒を前提としている。

価値観の転倒とはつまり、「物事の価値観を常識から反転させる」ということで、これはいかにも革新的な発想に思えるが、実はむしろ真っ先に思いつく領域であって、非常に答えを出しやすい方法なのだ。それは対義語のことを考えてもらえば一発でわかるはずだが、たとえば「暑い」という言葉を出したときに、最も簡単に思い浮かぶ関連用語は、「寒い」という対義語ではないだろうか。ひとつのことを思い浮かべた際、その真裏にある正反対のことは、真っ先に想定すべき(というか、つい連想してしまう)ことなのである。むしろ「暑さ」と「寒さ」の間にある領域に言葉を探すほうが難しい。

しかしこういった「価値観の転倒」は笑いの基本であって、実はそれ自体が問題なのではない。もしも価値観の転倒具合が反転までいかず中途半端であれば、それは新たな角度の面白さを生むかもしれないが、視聴者に伝わるには時間と労力が遙かにかかることになるだろう。つまりわかりにくくなってしまう。

問題は一本のコントを通じて「価値観の転倒」が徹底されすぎているということで、「何もかも反転させれば、すべて逆を行けばそれで成立する」という雑な作り方をされているということだ。

「白鳥美麗物語」では、周囲の男たちの中にある美少女の価値観が反転している。渡辺直美演じる白鳥を絶世の美少女とする感覚ですべてが展開されていくというコントだが、それはすべてをその価値観に当てはめて反転させていくというだけの話で、それくらいのことは設定を見せられた時点で視聴者にはすべてわかっている。「渡辺直美=美少女」ということは、自動的に「デブのほうがスタイルのいい人よりも美人」で「不細工のほうが整った顔よりもモテる」し「金髪のほうが黒髪よりも清楚」ということになる。

それらは方程式のように自動的に割り出される構図であって、特に画期的な発想も工夫も必要ない。設定を決めた時点で、すべてが決まっている。すべてが安定している。たしかに設定は転倒しているのだが、転倒した設定に対しては至極忠実な、普通のことばかりが並ぶことになる。となると見る側が設定をいったん把握してしまえば、想定内のことばかりが起こることになり、見ていて意外性がないと感じるのは当然の感想である。

その転倒した設定に対し、さらに何を起こすのか。裏返した土台の上に素直にブロックを積み上げるのではなく、どんな不安定な形状で、成立するかしないかギリギリのラインで積み上げていくのか。いま必要とされる笑いはとっくにその段階に来ており、少なくともダウンタウン以降の笑いは、皆その覚悟を持ってやってきているはずだ。

いいメンバーを集めるだけでも、いい設定を思いついただけでも極上の笑いは生まれない。そこから先を見せてほしいというか、そこから先でないと勝負にならないとさえ思う。しかし一方で、「これくらいが見やすくて心地いい」という人も多いのだろうし、それ(面白さよりも安心感)がむしろ番組の狙いなのかもしれないが。