テレビに耳ありラジオに目あり

テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場

     〈当ブログは一部アフィリエイト広告を利用しています〉

『ロンドンハーツ』2012/6/26放送回~笑いは誰のものだ?~

笑いはいつから大人のものになったのか? いやもとから大人のものだったのかもしれないし、たとえば欧米ではそもそも大人のものなのかもしれない。だが自分が子供だった頃のことを考えてみると、笑いは間違いなく子供のものだったような気がする。

当時の大人たちは、子供が『ドリフ』や『ひょうきん族』を観ようとすると無慈悲にもチャンネルをNHKに変えた。あるいは野球。志村けんよりもビートたけしよりも、アイパッチに三日月兜の渡辺謙や横分けミキプルーン風林火山中井貴一演じる武田信玄)、塁を盗んだり棍棒を振り回した挙げ句マウンドで謎の白い粉をはたくセカンドバック好きのマッチョマン達のほうが、大人には間違いなく人気があった。タモリも昔はアイパッチをしていたが武将ではない。元ボーリング場の支配人だ。

時に家族でお笑い番組を観ることもあったが、両親はほとんど笑わらないものだった。僕ら子供は、いつだって親の笑いのレベルの低さに不満を抱いていた。父親の駄洒落を頻繁にスルーしていたことに関しては、いまだに若干の罪の意識を感じている。今度会ったらぜひ駄洒落で謝罪したい。

『ロンハー』2週連続3時間SPの2週目となる今回は、歴代一発屋芸人が幼稚園児に裁かれる「チョイふる-1グランプリ」と、芸人の日常を検証する「ウラでこんなことしてました」の2本立て。後者はもちろん芸人たちのフォーメーション芸がいつも通り炸裂し、ジャングルポケット斉藤とポン村上のガチ(風?)喧嘩などの新たな「おいしい火種」も生まれるなど新たな収穫が。

そして先にやったもう1本の企画「チョイふる-1グランプリ」のほうを観て、僕は冒頭のようなこと、つまり「笑いはいつから大人のものになったのか?」ということを考えさせられたのだった。だからといってこの企画にその手のメッセージが込められているとは思わないが、しかしある種の真実をあぶり出してはいると思う。

その「ある種の真実」とはつまり、「テレビはすっかり大人のものになっている」という事実だ。テレビと笑いはもちろんイコールではないが、「テレビ」という言葉を「笑い」に置き換えても、この場合に限ってはおそらくそのまま通用する。

ザ・たっち、レギュラー、フォーリンラブ、ゆってぃ、ヒロシなど、一発屋と呼ばれる芸人たちが次々と幼稚園児を前にネタを披露する中、ダントツで園児たちの心を掴み、会場をダンスフロアにまで変貌させて優勝したのは、過去2回の優勝者である小島よしおだった。

この結果からもわかるように、基本的に言葉ではなくリズムや動きで笑いを取れる芸人が有利なのは明白なのだが、観ていてとにかく気になったのは、出場している多くの芸人が、ネタの肝の部分でかなり難しい言葉を使っているということ。「幽体離脱」とか「卑猥な大根」とか「イエス、フォーリンラブ」とかいう言葉は、大人からしてみると普通に意味のわかる言葉なのだが、たぶん平均的な幼稚園生には全然意味が通じていないんじゃないか。それでもザ・たっちが2位に入ったのは、双子というものの根本的な特殊性とそれゆえの価値を感じさせるが、たぶん園児たちは「幽体離脱」の意味がわかって笑っていたわけではなく、そっくりな二人がくっついたり離れたりするのが画的に面白かったということだろう。

いや、もちろん僕らが子供のころだって、加藤茶の「ちょっとだけよ」というフレーズや、さんまのマンションにくるくる回転しながら突入する紳助が呟く「さんちゃん、寒い…」という言葉が表す正確な意味をわかって笑っていたわけではない。だけど少なくとも言葉としてはわかりやすいものが意識的に選択されていたような気がするし、それはやはり子供たちを笑わせようという意識が、芸人にも局側にも当時は強かったのだろうと推測する。

しかし今のテレビ番組は、基本的に最も広告効果の高い大人の女性向けに作られている。だから芸人のネタも大人向けになってきている、というのは非常に直線的でわかりやすい理屈だが、だとするとなぜ昔の笑いは子供にも伝わりやすかったのか。

単に当時はマーケティングの知識と技術に乏しくて、「子供の心を掴んでおいたほうが、このさき大人になってからもずっと好きでいてくれるだろう」というアバウトな願望からそうしていただけ、というのが短絡的だがあっさり正解なのかもしれない。そしてその夢見がちな長期的展望は案外成就していて、さんま、たけしらを代表とする大御所芸人たちがいまだテレビ界のトップに君臨しているのは、あの頃夢中になった子供たちが、大人になった今でもファンとしてついているから、ということもあるだろう。つまりそれは、芸人が「使い捨て」にならない方法だった、と。

目の前のニーズに対し、必要なものを用意する。それがマーケティング至上主義となった現在の、笑いに限らずエンターテインメント界全体に見られる文化的傾向だが、それが使い捨てのサイクルを生み出しているのではないかという疑問は常にある。昔は基本的に少年漫画しかなかったものが、青年漫画腐女子向け漫画にまで展開したということ。本来子供向けとされていたコンピューターゲームに、いつの間にかR18指定の刻印が押されているものが混じってくること。子供向けから出発したものが、いつからか大人の所有物になっていくこの流れ。

あらゆるものがマーケティングを基準に細分化された結果として、「子供向けのものが大人へと開かれる」傾向が生まれたのだと思うが、それが本当にユーザーのリクエストを満たすものであるのかどうか。求めている願望に対しジャストなものを与えられるのが、本当の悦びであるのかどうか。本当の悦びは、願望の外側にこそ、想定外のものとしてあるのではないか。

かといって、「もっと子供向けの笑いをやったほうがいい」とは思わないというのがこの企画を観ての率直な感想で、現代においては、子供受けする人たちの別名こそが「一発屋」であるといっても間違いはない。

子供たちの感応する笑いがテレビから次々と消え、お笑いという文化が下の世代から崩れ去ることで、やがて時代とともに先細りになっていく。そんな未来をつい想像してしまうのだが、これはもちろん他の業界にも共通する問題であり、そもそも「少子化」というそれ以前の問題があるのだった。