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『M-1グランプリ2017』決勝感想~「二本勝負」という困難との戦い~

m-1グランプリ2017ロゴ

 

「二本勝負の難しさ」を改めて感じる今大会だった。一本目で勝負に出ないと、そもそも二本目に進めない。しかし一本目で勝負をかけると、二本目のインパクトが減じてしまう。ましてや二本目はベスト3が出揃う高次元の戦いになるから、ここで一本目より弱いネタを持ってきてしまうと、さらにその瑕疵が目立ってしまい致命傷になる。

 

だがそうなると、語るべきはその「インパクト」という謎の概念が、いったい何を指しているのかということだ。観る側にインパクトを与える要素としてはもちろん、ネタの設定、展開、キャラクター、ワードセンスなど、様々なファクターが存在する。

 

それら諸要素のうち、一本目と二本目で変えられるのがどこで、逆に変えられないのがどこなのか。また変えるべきはどこで、変えるべきでないのがどこかというのは、当然各コンビによって個々に判断が異なるわけで、そこにもまた個性が現れる。

 

さらに「変える」ということはつまり、何かを「捨てる」ということでもあるから難しい。たとえば一本目はキャラクターで勝負していたコンビが、二本目で展開重視のネタをやるとする。そうなれば単にプロットの展開に軸足を移したというだけでなく、自動的にキャラクターをアピールするために割く時間を減らさなければならないことになる。つまりキャラクターという長所を、ある程度捨てなければならなくなるということだ。

 

この「どこを使ってどこを捨てるか」という取捨選択の感覚は、特に厳しい時間制限のある『M-1』のような大会においては、とても重要になってくる。そこで必要になってくるのは、純粋な創作能力というよりは、むしろ「編集センス」ともいうべき能力かもしれない。むろん「どこを優先してどこを切り捨てるか」という編集センスも含めて、創作能力ということになるのだが。

 

以下、登場順に感想を。

 

【ゆにばーす】

男女コンビの人間関係にまつわる話という、まだ知られてないコンビだからこそ有効な、地に足のついた題材。

頭を洗っている場所が実はベランダであったり、風呂上がりに飲んでるものが実は化粧水であったりという、「ツッコミによってようやくそれがボケであったと判明するボケ」が特徴的。

行動と状況をコンスタントにズラしてくるのが上手く、ツッコミを待ってややアフター気味に笑いが来る。

 

『ゴッドタン』あたりで観た「ポスト三四郎」な印象に比べると、意外と正統派な印象を受けた。

今回のネタはボケのはらの方をフィーチャーするスタイルだったが、やはり川瀬名人のぶっ壊れた部分を観たい。

 

【カミナリ】

昨年の大会で「どつき漫才」のスタイルが有名になりすぎてしまったため、安定感もワードセンスも高いものの、このスタイル内ではもはやインパクトを出す余白が残されていないように感じられた。

 

ある意味、昨年のネタが実質「一本目」の役割を果たしてしまっているため、今年の一本目には二本目的な「一本目とは違うインパクト」が暗に求められていたというか。

そういう意味では、ハライチと同じ問題に突き当たっている印象。

 

とろサーモン

この日、もっとも自由な漫才を披露したのがとろサーモンだった。少なくともそう見えた。

その源泉は所々で顔を出すベテランならではの「アドリブ感」であり、ボケの久保田が終始醸しだしているアウトロー感でもあり。

 

自由であるというのは「特定の型を持たない」ということで、そもそも型がないため、最終決戦に残った三組のうち、彼らだけは二本目の方向性で迷う必要がなかったのではないか。何しろ型がなければ、型を変える必要もない。今日に関しては、その柔軟性がすなわち強さとなった。

 

たとえば二本目のネタ。当初の話題は「肩をぶつけてきたおじさんへの対処法」であり、そこを軸に話を進めていくのかと思いきや、かなり早い段階で焼き芋屋の話にあっさり変わる。

 

普通はこれだけ適当に軸を変えると観客はついていけないのだが、彼らはそもそも設定で勝負していないから、軸を変えてしまってもたいした被害はない。

 

では何が軸なのかといえばそれはやはり久保田の自堕落なキャラクターで、それされあれば他の要素がどう変わろうとクオリティに影響はない。

 

最終決戦に残った三組のうち、二本目のネタのクオリティが一本目に比べて落ちなかったのは彼らだけだった。

それでも個人的には和牛に軍配を上げるが、「キャラクターの力」と「自由度の高さ」という二要素の重要性を改めて痛感させられたという意味で、優勝に文句はない。

 

スーパーマラドーナ(敗者復活枠)】

合コンという複数人の状況をボケの田中が単独で演じきるという、無謀なひとり芝居的状況を武智の安定したツッコミでコントロールしていく。

 

田中の(意図的な)空回り感はもはや唯一無二の領域で、その危なっかしさが最大の魅力だが、ここまで弾けて来ると、むしろそれに対するツッコミが安定しすぎているのがやや物足りない。

後半にむけてツッコミがボケに巻き込まれ、二人して壊れていくような展開も見てみたい。

 

かまいたち

テンポが良く、全方位的に仕上がっていてクオリティも高い。

 

だがなぜかあまり印象に残らなかった。

コントに比べると、というのもあるのかもしれない。

 

マヂカルラブリー

ひとりミュージカルを繰り広げるボケの野田クリスタルの動きの面白さ。

 

それはたしかにあるのだが、反面、動きに頼りすぎて言葉が追いついていない印象。

フレーズを強化することで、言葉と動きの掛け算の値は飛躍的に向上するのではないか。

 

さや香

ボケとツッコミというよりは、フリに対する過剰なリアクションボケで見せる形。

 

前半の「静」から後半の「動」への緩急がダイナミックで、尻上がりにテンションが上がっていくが、横への展開やねじれがないのがやや物足りない。

 

ただし独特の空気感があるので、個人的には気になっている存在。

 

【ミキ】

ベタなネタを、テンションとテンポでねじ伏せる。そこに「上手さ」を感じるか、中心となるネタの弱さが気になるか。

 

基本的にボケどころを示すスイッチが全部露出しているため、やや野暮ったく感じられるが、それが誰にでもとっつきやすい「わかりやすさ」にもなっているというジレンマ。

 

【和牛】

出順も含め、あらゆる要素が着々と「和牛シフト」を作り上げていくように見えた。

最近、彼らがかつてやっていたラジオ『和牛のおもしろ牧場』(KBS京都)にハマッていたこともあって、個人的には優勝してほしかったし、客観的に見ても優勝に値するクオリティであったと思う。

 

特に一本目で最高得点を叩き出したウエディングプランナーのネタは圧巻だった。むしろ一本目の素晴らしさが、二本目の足を引っ張ったと言ってもいい。

 

一本目は前半に張った伏線を後半ですべて回収するという二段構えの構造。さらに凄いのは、前半に張った伏線をそのまま順当に回収するのではなく、前半提示されながらも却下された「没案」の方をわざわざ回収しているという点。

つまり単なる二段構えではなく、そこにひねりまで加わっている。

 

審査員の小朝師匠も言っていたように、前半はボケの水田のみがボケるが、後半はツッコミの川西もボケはじめ、最終的には二人とも弾けて終わるという明確な展開がある。

当ブログではこれまでも、「展開」ということについて繰り返し書いてきたが、この「ツッコミの方が単なるツッコミで終わるか、ボケに参入するか」という選択肢は、『M-1』という大会における生命線であると個人的には考えている。

 

そして二本目で、彼らはまた違う展開を持ってくるのか、同じ展開で攻めてくるのか。ネタのクオリティは間違いないだけに、そこの選択が勝負の分かれ目になると思っていた。

結果的には一本目ほど展開重視ではないものの、やはり同じく後半に伏線回収のあるネタを持ってきた結果、やや縮小再生産的な印象になってしまったのは否めない。

 

旅館の女将役の川西が、一日目の反省を生かして二日目はすこぶる的確に顧客対応するという展開が後半に訪れるが、一本目に比べるとそこにひねりはなく素直な伏線回収になっており、ひとまわり小さい展開に見えてしまった。

一本目が没案を採用するという「逆接」的展開であったのに比べて、二本目はストレートな「順接」的展開というか。

 

とはいえ伏線の回収とは本来そういうものであって、一本目が画期的すぎたのだと思う。

しかし最終決戦に残った二本目だけを比較しても、個人的には和牛が一番面白かったと思っている。

ただ、優勝したとろサーモンは、二本目の方が一本目より面白かった。これもまた「展開」と言うべきか。

 

ジャルジャル

ただひたすらに珍妙なことを言い続けるという、ジャルジャルらしいミニマムでしつこいネタ。

徹底的に中身を排除するそのストイックな姿勢は、純文学的というか、「純お笑い」とでも言いたくなる。

 

音楽でいえばこれだけメロディのない歌を聴かせるのは凄いし、リフだけで押すそのシンプルなスタイルは洋楽的でもある。

 

ただし、飽きる。挑戦的だが、どこか閉じている。

 

一方で和牛の一本目は、挑戦的でかつ、開いている。この違いは大きい。

 

しかしジャルジャルの開拓者精神には、いつも注目している。とはいえ自ら切り拓いたスタイルが、時には自らの足枷となることもあるだろう。