ラジオの面白い芸人を信頼している。それはエッセイの面白い小説家が信頼できるのに似ている。もちろんエッセイと小説は違うし、ラジオのフリートークと漫才やコントも別物だ。
その間には、「ノンフィクション」と「フィクション」という決定的な区別が存在する――というのは嘘で、その二者の間にはどっちつかずの、結構なグレーゾーンが広がっている。フィクション要素の大きいフリートークもあれば、ほとんど事実に基づいて書かれた小説もある。
たとえば近ごろ町田康の書く作品には、エッセイか小説か区別がつかず、どちらとも読める作品群がある。読者だけでなく帯や解説文を書く人さえ、あるいは作家本人でさえ、それをどちらと呼ぶか決めかねている様子が見える。いやむしろ、面白ければどっちでもいいじゃないかと。それでいいと思う。
ラジオというのは誤魔化しのきかないメディアだと思っている。そこで試されるのは、ただ「面白いことを面白く伝える」能力ではない。ラジオ番組の多くは、舞台のネタに比べると遙かに長尺で、テレビと比べても喋りの個人負担が圧倒的に多い。だからたとえば二時間の生放送を「面白いネタ」で埋め尽くすのは至難の業となる。そんな長い時間、次から次へと面白い出来事ばかりが起こるはずがない。
ゆえにそこで求められるのは、「つまらないことをも面白く伝えてしまう」魔法のような力だ。結果的に面白くなるのだから、「つまらない」という言いかたは語弊があるかもしれない。「取るに足らないこと」「どうでもいいこと」「完成度の低いもの」……つまり「話のネタとして弱いもの」ということになるが、そういった「そこらへんに転がっているもの」を面白くできなければ、ラジオは面白くならない。
だから僕がラジオの面白い芸人を信頼しているというのは、それによって、目の前で何が起きようとそれを笑いに変換してしまう芸人としての懐の深さが、自動的に証明されることになるからだ。
前置きがずいぶんと長くなったが、そういう場合は前置きこそが本論である。これは前置きではなく、アインシュタインというコンビの魅力の本質を、わりとストレートに伝えるつもりで書いている。
漫才六本とコント一本と幕間VTR、そして観客からの質問に答えるフリートーク。そんな単独然とした構成のライブから見えてきたものは、まさに前項の『アインシュタインのヒラメキラジオ』について書いたレビューで触れた二人の魅力を、ものの見事に証明してみせるものであった。
ボケが綺麗に決まったらもちろん面白いし、失敗したらしたでツッコミにより間違いなく笑いに変換される。成功も失敗も、どちらもコンスタントに笑いになるならば、それはもはや笑いの永久機関だろう。ラジオから感じていたブレイクの予感を、確信へと変えるライブであった。
【『アインシュタインのヒラメキラジオ』~追い込まれた先に煌めくヒラメキのプロセス~】