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『真田丸』第2回感想

大河ドラマ『真田丸』

やはりこのドラマは、いまのところ真田幸村=信繁のドラマではなく、その父・真田昌幸のドラマである。そしてその重心の置きどころは、真田家の魅力を炙りだしてゆく上で非常に理想的であると感じている。2話目までの時点ですでに、「昌幸あっての信繁」というスタンスが確立されている。個人的には、そこに脚本家・三谷幸喜の本気を感じる。おそらく三谷幸喜にとっても、かの秀吉に「煮ても焼いても食えぬ」と言わしめた表裏比興の者・昌幸はお気に入りのキャラクターなのだろう。

あるいは単純に視聴率を取りにいくならば、頭から信繁だけにもっとスポットを当てていくべきなのかもしれない。現代における世間的な知名度は明らかに昌幸<信繁であるし、物語全体における主人公ひとりに山場を一極集中させたほうが、ただでさえわかりづらい歴史ものへの入口としてはふさわしいと言える。だがこの戦国当時の知名度でいえば、これは間違いなく昌幸>信繁であったという。それはこの先描かれる部分であるから詳しくは触れないが、戦国武将としての実績でいえば圧倒的に昌幸なのである。

しかしそれは必ずしも、「信繁が能力的に昌幸よりも劣っていた」ということを意味しない。むしろ信繁には、まさしく父・昌幸の持っていた「実績」こそが足りなかった。人は実力があっても実績がなければ重用されず、周囲に意見を聞き入れてはもらえない。そこに信繁の限界があった。しかしその限界の中で最期まで知恵を絞ってもがいたことが、いまの信繁の名声へとつながり、組織という限界の中で力を発揮することを強いられている現代日本人の共感を呼んでいるとも言える。

ここらへんの事情は司馬遼太郎『城塞』に詳しく描かれているので、未読の方にはぜひ一読をおすすめする。読んでみたらおそらく一読どころではなく、生涯のバイブルとなるかもしれない。

この第2話で絶体絶命のピンチに救世主として現れたのは昌幸であり、もっとも魅力的なシーンは昌幸が息子たちにくじ引きを引かせる、いや引かせないシーンだった。主家の武田家が滅びたいま、真田家の命運を上杉家に預けるべきか、北条家に預けるべきか。そんな一家の行く末を決める一大事を決するために、自らわざわざ2本のクジをこしらえる昌幸。さらにはそれを息子に引かせたうえで、どちらも強く握って引かせず、結局のところ両方をポイッと火にくべて「織田家につく」と、よりによって主君の仇であるオルタナティヴな選択肢を平然と選んでみせる。このシリアスな中にも遊び心あふれるシーンは、まさに「煮ても焼いても食えない」昌幸の面目躍如である。この茶目っ気を知恵と呼ぶ。

一方で少し気になるのは、やはり堺雅人の演技が、特にコメディ方面に振れた際に、どうしても『リーガル・ハイ』の古美門を連想させてしまう点、そしてところどころ演出上のけれん味がありすぎる点だろうか。後者に関しては、この第2話でいえば「武田勝頼切腹」という差し迫ったシーンに、父・信玄の霊がいきなり登場したあたり、さすがにやや興醒めしてしまった。三谷幸喜の映画『ステキな金縛り』で落ち武者の霊をフィーチャーしていただけに、まさかそのパロディというわけではないと思うが癖なのか好みなのか。いずれにしろ安っぽく見えてしまうので、あまりそこに頼らないほうが良いのではないか、と。

あとは本編とは関係ないが、主題歌がさすがに地味すぎて物足りない。真田家の波瀾万丈を表現するにしては、さすがにおとなしすぎるだろう。

今後しばらくは、真田昌幸の一挙手一投足に注目である。そしてその影響が息子・信繁へと、どのタイミングで、どのような形で受け継がれてゆくのか、そのプロセスをじっくりと味わいつつ見守っていきたい。