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『軍師官兵衛』~あえて「見せない」ことでドラマは如何ようにも面白くなる~

ドラマには、見せたほうがいい部分と見せないほうがいい部分がある。当然だが物語というのは、「描かれる部分」と「描かれない部分」によってできている。そこには「描かれない部分」というのが少なからずあり、「何を描くか」というのはつまり「何を描かないか」という判断でもある。

そんなことは些末事であると思われるかもしれない。しかし話題をもう少し幅広く、ドラマ外の物事へと敷衍して考えてみれば、それが重要な問題であるのがすぐにわかる。たとえば料理。料理をするにあたっては、まずこの世にある食材の中から何を選び取って使用するかという選択肢が目の前に立ちはだかる。当然、使わない材料のほうが遙かに多い。そして余計なものをひとつでも入れると必ず不味くなる。つまり料理という「作品」は、何かを選ばないことによって初めて成立する。

今年の大河ドラマは、今のところ『軍師官兵衛』ではなく『魔王信長』になってしまっている。それはすべてを親切に描こうとし過ぎているからだ。焦点を官兵衛のみに絞り込む勇気と思いきりが足りない。

戦国時代を描く場合、全体の状況を包括的に伝えたいのであれば、信長・秀吉・家康のいずれかを中心に据えるのがもっとも視野を広く取れるのは言うまでもない。物語を黒田官兵衛の少年期からスタートするならば、信長がもたらした桶狭間ショックは当然避けて通れず、この三人の中でも信長を中心に捉えるのがもっとも世の中の情勢をビビッドに伝えられる。

今のところこのドラマは、官兵衛属する播磨の小寺家と、信長付近の中央情勢の二元中継になっている。バラエティ番組にたとえるならば、スタジオに黒田官兵衛がいて、ロケ先に信長がいる。京の都からそう遠くはないものの、現時点では田舎侍の域を出ない官兵衛は、いわばまだ首都圏では知られていない芸歴三年程度の地元密着型若手芸人。もちろんコンテストでも結果を残すまで至らず、この番組もローカル局限定の放送となる。対して京に上る信長は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのすっかり全国区の人気芸人であり、今日で言えば有吉弘行のような存在である。

出演時間は、もちろんメインスタジオにいる若手芸人のほうが長い。しかしたまに挟まれる中継のほうが、視聴者はどうしても気になってしまう。向こうには信長(有吉)の横に秀吉(ザキヤマ)までおり、ものすごく派手でスケール感もあって、見るからに楽しそうだ。それに対しこちらのスタジオでは、地元のグルメ情報を細々と紹介している。きっと誰もがスタジオにマイクをお返ししないことを願っている。いま(第四話終了時点)の『軍師官兵衛』は、まさにそういう状態である。

地元の若手芸人が駄目だと言っているのではない。黒田官兵衛は、群雄割拠の戦国期においても間違いなく奇特な興味深い人物であり、その面白さは司馬遼太郎の『播磨灘物語』をはじめ数々の歴史小説によってすでに証明されている。つまりこの若手芸人は間違いなく実力派であり、後に有吉(信長)ほどではないまでも、全国区へと名を馳せる逸材なのである。だが同じ番組に有吉(信長)やザキヤマ(秀吉)が出てきたら、視聴者の興味は間違いなくそちらへ行く。直接の絡みがあれば実力を発揮するチャンスもあるが、二元中継で番組中にいまだ接点がないとなるともはやどうしようもない。これはやはり「何を描いて何を描かないか」という構成/演出の問題なのである。

いわばこの『軍師官兵衛』というドラマは、「地方の若手芸人(武将)を全国区へ売り出す」というコンセプトを潜在的に抱えて始まった番組である。ならば官兵衛の魅力を最大限描くには、それ以上に派手な要素を極力カットする必要がある。戦国時代におけるそれは、「中央の情勢」である。

もちろん官兵衛はこの先、「中央の情勢」と大きな関わりを持つことになってゆくわけで、そのための伏線として最低限の情報は事前に伝えておく必要があるし、またドラマの「つかみ」として信長や秀吉といった著名な人物の登場シーンが機能するのも間違いない。だがそこに大きく頼るのならば、最初から信長や秀吉を主役にドラマをやるべきであり、すでにそれらの大物がやり尽くされているというだけの理由で官兵衛を選んだのか、ということになってしまう。

「マクロな視点(中央の情勢)とミクロな視点(播磨の情勢)をバランス良く配合する」というのは一見理想的にも思えるかもしれないが、いずれかが突出している場合、視聴者の興味は非常に偏ったものになる。やはり信長や秀吉のやったことの派手さとキャラクターの強さに、真っ向から勝負を挑んで勝つのは難しい。官兵衛の魅力は彼らのような派手さではなく、その裏に巡らした策謀の数々であるはずだ。だからこそタイトルにわざわざ「軍師」とつけたのではなかったか。

そういう意味で本作の官兵衛は、今のところ「策士感」が足りず爽やか一辺倒に過ぎる。時代の表舞台ではなく、その裏側に貼りつき奇策を講じて暗躍するような、「食えない男」としての官兵衛を見せてほしいのだが。近年の大河ドラマは、すべてを爽やかさに回収することで女性人気を狙っている節があるが、そればかりやっていると全部同じになってしまう。『龍馬伝』のときの福山龍馬も爽やかさを前面に押し出したキャラクターだったが、今回の岡田官兵衛からも今のところほぼ同じ印象を受ける。

一人の人物を絶対的主役として配置する以上、その主役のキャラクターによってドラマ全体の方向が決定されるべきであって、あらかじめドラマの目指している方向性にキャラクターを寄せるべきではない。漫画制作の現場などでもよく言われる「キャラクターを生かす」というのはつまりそういうことであり、キャラクターを作者の想定した枠組みの中に閉じ込めてはならない。

とはいえ黒田官兵衛は特に好きな武将の一人ではあるので、期待を胸にしばらくは見続けようと思う。「二兵衛」として官兵衛と並び称される「もうひとりの兵衛」である竹中半兵衛のほうが、登場時間は少ないものの今のところ策士感が強くて魅力的に映っている。

それにしてもオープニング曲の「盛り上がりきらなさ」はもう少しどうにかならなかったものかと考えるのだが、あるいはそれこそが官兵衛の軍師的裏方人生を象徴しているのかもしれない。いやしかし歴史小説で読む限り、官兵衛の人生はもっとはるかに起伏に富んだ面白いものであったはずだ。