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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第21回更新~『吉田照美 飛べ!サルバドール』~

ラジオコラム第21回は、午後へ帰ってきた吉田照美がさっそく大暴れしている新番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』について。

【無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』】

http://www.cyzo.com/2013/05/post_13310.html

吉田照美の魅力は、ひとことで言うとその無尽蔵なまでの「減らず口」にある。そもそも人は皆それぞれの理屈で生きているという意味では「減らず口」の持ち主であるはずで、もし「減っている」としたらその原因をちゃんと探ったほうがいい。

多くの場合、「減らず口」が「減りはじめた」としたら、それは社会から減らすことを求められていると自身が感じているからで、仕事や社会生活の円滑な進行のために自説を抑えこむことが習慣化した結果、思ったことを言わなくなるのが当たり前になるというのはむしろ自然な流れだと言える。

というと、まるで「円滑な進行」と「減らず口」は両立不可能で相反する要素であるように響く。だがその両者がもしかして相反する要素であったとしても、けっして両立が不可能ではないということを、ラジオパーソナリティーとしての吉田照美は証明する。彼はそもそもアナウンサーであり、アナウンサーとは基本的に「円滑な進行」を司る存在である。

そして吉田照美の進行は、やはり円滑なのである。そうでなければ、ここまでアナウンサーとして第一線で生き残ってはいないだろう。しかしその円滑さは、あくまでも全体像としてのマクロな結果論としてもたらされるものであって、実のところその中身はあらゆる対立構造を意図的に含んでおり、個々の局面は「減らず口」同士のゴツゴツしたぶつかり合いによって形成されている。それらがまるで河原の石のように、まともにぶつかり合うことで互いの角が取れ、結果として円滑さを手に入れる……とか言いたいところだが、何しろ「減らず口」なのでそう簡単に角が減ることはない。

しかし対話という河の水は、しっかりと前へ流れている。その結果から逆算すると、円滑な進行は間違いなく達成されている。意見の衝突エネルギーが話を前へ前へと進める推進力となり、聴き手を引っ張ってゆく牽引力になっている。これは真面目な会議でも友達との笑い話でも重要なことで、やはり結局のところ「減らず口」を叩く勇気が必要だってことになる。もちろん「減らず口」のセンスは問われる。