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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第22回更新~『ROCKETMAN SHOW』~

ラジオコラム第22回は、『5時に夢中!』でのカオスさばきも絶妙なふかわりょうの『ROCKETMAN SHOW』について。

【「わからない」を楽しむ先に真実が見える、ふかわりょうの思考遊戯場『ROCKETMAN SHOW』】

http://www.cyzo.com/2013/05/post_13473.html

それにしても土曜深夜は困る。『エレ片』『オードリーのANN』そしてこの『ROCKETMAN SHOW』という横並びは、紛うかたなき芸人ラジオの激戦区である。恐ろしく内気なサタデー・ナイト・フィーバー。そして見事に三者三様の面白さがある。

テレビだとどうしても大所帯になり、複数の芸人を組み合わせで呼ぶ場合が多いため、ラインナップがかぶると似たような番組になるケースが少なくない。だがラジオの場合はそれぞれが個々に番組を担当しているから、芸人ごとの世界観が如実に現れ、自動的に方向性がバラけ、結果として笑いの多様性を感じさせてくれる。多様性とは可能性と言い換えてもいい。「笑い以外に何もない笑い」はその純度の高さにおいて魅力的だし、「真面目な話の根底に笑いのエッセンスがある」というのもまた、出汁のきいた料理のような味わい深い面白さがある。とにかく三番組とも面白いから困るという話である。

ふかわりょうはそもそも、不条理な笑いで世に出た芸人である。だが不条理とは何かと考えてみるとき、たとえば不条理の代表格であるカフカの小説を例にとってみるならば、不条理とは究極のリアリズムであるということになる。カフカの小説に潜むあの不穏な面白さは、リアリティ以外の何ものでもない。

「いや不条理とは『道理にあわないこと』を指すのだから、リアルとは正反対だろう」と思うかもしれない。しかし実のところ、道理とは日常そのものではない。日常から様々なノイズを除去し、社会生活を送るうえで都合よく通したものが道理であって、それは非常にデジタルな手順によって生み出された、ある種の人工物でしかない。道というのは基本的に人工的なものである。

だから日常からリアルを切り取ろうとすると、そこには必ず不条理という不純物がくっついてくる。あるいは道理よりも不条理のほうが、分量的には多くひっついてくるくらいのバランスかもしれない。

『ROCKETMAN SHOW』におけるふかわりょうの語りのリアリティの根底には、間違いなく彼がデビュー当初から、あるいはそれ以前から向きあってきたであろう不条理に対する鋭敏な感覚がある。そして不条理とはつまるところ、世の中にはびこる種々多様な「わからなさ」でもある。

「わからなさ」を「わからないまま」とりあえず捕まえてみて、まずはそれをいろんな角度からためつすがめつしてみたり、それが何を意味するのかじっくり考えてみたり、時には適当にもて遊んでみたりする。そうしてるうちに、わかってるはずだったことまでが、急にわからなくなってきたりする。

前提となる世の中が不条理である以上、リアルな面白さというものは「わからなさ」の中に、いやそんな「わからなさとの格闘(あるいは戯れ)」の中にしかないのではないか。