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「ネタ芸人」がひな壇でブレイクするための思考~バナナマンと山里亮太の発言をフックに~

ネタで認められた芸人がバラエティ番組のひな壇で活躍できないという状況が、さらに深刻化している。

それはもちろん、自らが設定した世界観の中で勝負できるネタと、他人の作り上げた世界観の中で勝負しなければならないバラエティという枠組みの違いによるところが大きい。いわばホームには強いがアウェイには滅法弱いという、スポーツでいえば中位以下のチームに多く見られる典型的内弁慶パターンだが、しかしかといって、今テレビで売れている芸人がはじめからアウェイに強かったかというと、もちろんそんなことはない。番組枠を買い占める財力を常時所有していない限り、誰しもが最初はアウェイの場で戦っていくことにより、どこかの段階でブレイクを果たす。そして当然、ブレイクしない人間のほうが常に圧倒的に多い。

今週月曜に配信された『バナナマンバナナムーンGOLD』のポッドキャストは、東京03の飯塚、豊本をゲストに迎え、本放送を超える2時間強の大盤振る舞い。その大半は、『キングオブコント』を獲りながらもその後テレビで振るわない東京03の現状に対するアドバイスというか、ほぼ「お悩み相談室」の様相。だがそこからは、あらゆる芸人が抱えている普遍的問題と、テレビ制作者が考えなければならない根本的問題が浮かび上がってくる。

もちろん設楽も、その昔は生粋の「ネタ芸人」だった。そういう意味では、今の東京03とほぼ同じような状況下にあったと言っても過言ではない。当時は日村も今のようにはキャラが立っておらず、特に太ってもいない。設楽はとにかく皮肉な冷笑を浮かべていた印象が強い。さまぁ~ずの大竹も、くりぃむしちゅーの有田も、爆笑問題の太田もそうだった。だが彼らはテレビに頻繁に出るようになって、ようやく素直な笑顔を見せるようになった。

テレビに出るようになったから笑えるようになったのか、笑えるようになったからテレビに使ってもらえるようになったのか。

「輪で作ってる番組のひとりが、ギラギラしてコメント考えてるとかって嫌じゃん」と語る設楽には、どうやら後者であるという自覚があるようだ。もちろん、「テレビに出ても上手く笑えず、そうした失敗を重ねる中で学んでいった」という意味では前者だが。当初は設楽も、VTRあけに振られたら何を言おうかと考えるあまりしかめっ面になり、またその怖い表情をワイプに抜かれ、それ以降抜かれなくなるという失敗を繰り返していたという。

「漫才と、他のバラエティ番組に出てるときのギャップを、極力少なめにしてる漫才」

『THE MANZAI2013』優勝者ウーマンラッシュアワーのネタをそう評したのは、今週水曜日のラジオ『山里亮太の不毛な議論』における山里である。この言葉には、興味深い続きがある。

「こいつって、ウチの番組呼んだら面白そうだな、と思わせる漫才」

つまりネタとひな壇が地続きであるということ。これは山里自身がコンテストに出る際にも、気をつけていた点だったという。

たしかに芸人には、ネタの中で演じるキャラと、バラエティ番組で見せる素のキャラの二つの側面が存在する。あるいはバラエティで見せるキャラもある程度演じられていると考えるならば、そこに日常生活を送っている際の本当の素の顔を含め、三通りの人格が同一人物の中に存在することになる。これは大変なことだ。

そして実際のところ人々は、「作品」よりも「人物」のほうに興味がある。個人的には、「人物」に興味を惹かれつつも、もっと「作品」が正当に評価される世の中になってほしいと考えているが、多くの人が「作品」よりも「キャラクター」を求めているというワイドショー的嗜好は間違いなくある。

だがその求められている「キャラクター」とは、「作品=ネタ」中の世界観でしか通用しないキャラのことではない。その限られた世界観を飛び出して、たとえば他のバラエティ番組であるとか、もっと言えば街でバッタリ出会ったときにも通用するような普遍性をもったキャラでなければならない。

と、こういう言い方をするとまるでこれが、ネタ芸人がバラエティで売れるための「答え」のようだが、それらしい「答え」が出る場合は、「問題」の方が間違っている可能性が高い。

ここで設定されている問題とは、そもそも「芸人がバラエティ番組で活躍するにはどうしたらいいか」というものだが、その中にはさらに、「では今のバラエティ番組は芸人の目的地として正しいのか」という、より大きな問題が内包されている。

今のバラエティ番組が、果たして芸人のポテンシャルを引き出す構造になっているのかどうか。そこに必要なのは「芸人」ではなく「タレント」としてのその人でしかないのではないか。それ以前に、そもそもお笑い的な面白さを目指して作られている番組が、どれだけあるというのか。

こうして本当に考えるべき問題にぶち当たったとき、そこに明確な答えはない。だが明らかなのは、これは芸人の側だけで解決できる問題ではないということだ。