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シソンヌライブ[une]~「共感」と「違和感」の狭間から立ち上がる狂気~

お笑いライブを観に来る観客の多くは、もちろん笑いに来ている。笑うために来ている。そういうことになっている。しかし本当にそれだけなのだろうか。もしかしたら怖がるために来ているのかもしれない。何を? 表現者が見せてくれる、自分とはまったく異なる思考回路を。本当に面白いものには、必ずある種の怖さがつきまとう。狂気と言い換えてもいいが、それは一般に言われているほど格好のいいものではない。笑いの根本に横たわっているのは、もっと漠然とした、つかみどころのない「違和感」のようなものだ。

笑いは「共感」と「違和感」をベースに構成される。簡単に言えば、「自分と同じだから面白い」と感じる場合と、「自分と違うから面白い」と感じる場合があるということだ。もちろんこれでは「簡単に言いすぎ」で、その間には無数の段階が存在する。しかし一般に、笑いは「共感」寄りであるほどわかりやすく、「違和感」寄りであるほど難しく感じられる。と同時に、「共感」にはありがちであるという致命的なデメリットがあり、「違和感」にはオリジナリティとインパクトという絶大なメリットがある。

つまり基本的には、「共感」も「違和感」も、両方必要だということになる。問題はその配合比率と、どこに「共感」ポイントを設定し、どこで「違和感」を感じさせるかという、ネタの構造の違いである。もちろん構造だけ上手でも仕方なく、本当は「結果的に面白いかどうか」という結果論からしか語れないのだが、それだと「センス」といういい加減なひとことですべてを片づけるしかなくなってしまうので、そこは置く。

今回シソンヌのネタを観て改めて感じたのは、彼らが日常で感じる「違和感」というものを、非常に丁寧に拾い上げ、宝物のように扱っているということだ。いや「宝物」というよりは、「泥だんご」と言い直したほうがいいかもしれない。何しろその宝物は、練りに練ってある。そして表面が光を放つまでに練り込まれた泥だんごは、子供にとって立派な宝物になり得る。最終的にそれは、壁にぶん投げられ跡かたもなく砕け散ることになるのかもしれない。しかしその危うさこそがまた、「違和感」の持つかけがえのない魅力なのである。

たとえば今回のライブで披露された中に、「病気で休むことになった先生が、職員室で先輩教師にクラス名簿を渡して引き継ぎを頼む」という設定のネタがある。まずはこの、「ありそうだけど実際には見たことがない」という微妙なシーンを設定として選んだというところに驚く。普通に考えれば、まったく魅力的なフィクションが立ち上がる予感のしない場面でしかなく、明確に「共感」できるほど見覚えがあるわけでも、強烈な「違和感」を感じるほどインパクトがあるわけでもない。

だが「共感」と「違和感」の間に生まれたわずかな行間にこそ、フィクションの生まれ得る想像の余地があることを、彼らは知っている。病気の先生を演じるじろうのキャラクターが生み出す小さな「違和感」の積み重ねが、そこには見えないクラスの問題点を次々とあぶり出してゆく。

そこで生まれる「違和感」というものは、じろうの絶妙にズレた発言のみならず、彼の目の泳ぎ、間の悪さ、いつ大声を出すのか読めないテンションの不安定さなどにより、立体的に組み上げられる。つまりここでは、台詞の精度だけでなく演技力も、「違和感」を生み出すことに大きく貢献している。そして時に食い気味に、時に充分な間を空けることでイラ立ちや正しさを表明してみせる、長谷川忍のタイミングにこだわり抜いたツッコミが、さらにその「違和感」を際立たせて見せる。最初はわずかだった「違和感」が、コント後半には圧倒的な「違和感」となって観客の思考回路を揺さぶる。シソンヌの場合、その「違和感」は常に、設定を初めて目にした段階で想像し得たレベルを、遙かに超えてくる。

一見何も起こらなさそうな設定の中に「違和感」の種を見出し、それを育て、いつも想像以上の何かを起こしてしまう。他の芸人がやったらコントにならないような設定も、彼らがやると「この設定しかない」と確信できる唯一無二のコントになる。いまテレビの笑いの主流は、明らかに「違和感」よりも「共感」寄りだけれど、本当に面白いものは、「共感」と「違和感」の狭間から立ち上がり、最終的に「違和感」のほうへと振り切れることで生まれるのではないかと、彼らのライブを観て改めて考えさせられた。もちろん、考える前に笑っていた。ある種の怖さを感じながら。怖くない笑いなどいらない。