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『AKB48第4回選抜総選挙 生放送SP』~頑張り至上主義の祭典~

最初に言っておかなければならないのは、僕はアイドルとお笑いはそもそも相反するものだと思っているということ。つまりアイドルという存在が基本的に好きではないのだが、なぜかお笑い好きにはアイドル好きが異様に多いようで、それがなぜかってことはわりといつも気になってはいる。

僕はアイドルの、というか「世の中全般の欺瞞を暴いて笑う」のが笑いの根本姿勢だと思っているので、アイドルという偶像は、笑いの対象であって真面目に語るほどのものじゃないと考えている。

というわけでまったく知識のない状態で、完全に興味本位でこの総選挙を観た。一番印象に残ったのはもちろん、解説者席に座るモギケン(茂木健一郎)。

なぜ脳科学者がアイドルの総選挙を解説をしているのかまったく理解できないが、とにかくいつ脳の話に無理矢理つなげてくるのか、いつ「アハ体験!」を見せてくれるのか、ずっとドキドキハラハラしていた。おそらくフロアディレクターのカンペには、「そこから脳の話題につなげて!」との文字が頻繁に踊っていたことだろう。少なくとも、「競争原理がもたらすプレッシャーは脳を活性化する」くらいのことは言うかと思ったが、そんなこと全然言わずただ髪の毛をモジャモジャさせるのみ。

と、徹底して客観的に観ることしかできなかったわけだけど、これをひとつの「光景」として眺めていると、これは結構異様な光景だぞと思えてくる。

単純に言えば、この総選挙システムは「ゆとり教育」の真逆にある「競争社会」の最たるものだろう。運動会で手を繋いでゴールさせ順位をつけず、「みんな頑張った! それぞれが世界にひとつだけの花だよ!」という「誰も傷つかないユートピア」の構築を目指す。そんなゆとり教育とは真逆の、数字まみれの残酷な競争原理がここには働いているはずなのだが、しかしこれを好んでみている人たちの心に浮かんでくる感想は、実はその「みんな頑張った! それぞれが世界にひとつだけの花だよ!」というような、むしろゆとり感あふれるものなんじゃあないだろうか。

明確な順位をつけて縦に並べることが、「みんな頑張った」というアバウトな全肯定につながるのは一見矛盾しているように思うが、たぶんこの光景を観ている人の多くは、最終的にたぶんそんな感覚に陥っていたのではないだろうか。「過呼吸になる」とか「スピーチで泣く」とかいうのは単なる劇的な前フリに過ぎなくて、結果的には「みんな頑張った」というごくごく平和な落としどころが間違いなく本人たち以外には見えている。だから安心して楽しめる。

いや中にはそういう構図が「見えているらしき本人」を感じさせるスピーチもあって、「とにかく票が欲しくてしょうがなかった」というようなことをつい言ってしまう人にはむしろ好感が持てた。そりゃそうでしょう。本当に頑張っている人にとっては、「みんな頑張ったね!」という感想は、ほとんど侮辱でしかあり得ない。

それは「他の人と同じくらい頑張った」ということであると同時に、「他の人より頑張ったわけでは決してない」という意味でもあるわけで、誰だって自分の努力は他人の努力よりも大きく認めてほしい。

と、そこで不思議なのは、この人たちの世界においてはいつの間にか「頑張ったかどうか」が評価の絶対基準になってるっぽい点で、本来アイドルのメイン武器であるはずの生まれつきの美しさとか才能とかいうものへの評価を口にすることが、なんとなくタブーになっているような気がすることだ。

投票結果を見るとそのへんの迷いが結構出ているようで面白く、やっぱり最上位にはかなり見た目のいい人が揃っているような気がするが、その下には見た目よりも頑張りとキャラクターが評価されたっぽい人が結構いて、さらにその下にはむしろ意外と見た目がいい人が並んでいたりする。

見た目なのか頑張りなのか結局どっちなんだよ、という気がするが、そのへんは妙にリアリティがあるというか、結局のところ「応援したくなる」というのが投票の基準なんだな、と思えば妙に腑に落ちる部分もあったり。

しかしたとえば何も知らない欧米人がこれを観たら、まるで「ヒトラーの演説と聴衆たち」の光景を観るようで、日本人にはまだ軍国主義のメンタリティが着実に存在していると感じ、戦慄するんじゃないかと思う。

きっとそれくらい異様な光景。

【『AKB48第4回選抜総選挙 生放送SP』HP】

http://www.fujitv.co.jp/akbsousenkyo/index.html