『日刊サイゾー』のラジオコラム第35回は、ゲストに迎えられた狩野英孝が斬新な「泳ぎ」を見せた『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』について。
【稀代のイジられキャラ・狩野英孝を“泳がせる”壮大な長尺コント『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』】
http://www.cyzo.com/2013/12/post_15458.html
一般に、笑いにはツッコミが必要不可欠だと思われている。ボケが間違ったことを言い、ツッコミがその間違いを修正する。まるでテスト採点のような生真面目なプロセスだが、人はボケが間違え続けている最中よりも、ツッコミがそれを正したタイミングでより大きく笑う。ツッコミが入ることで初めて、そこまでの「面白い間違い=ボケ」を「笑っていいもの」と再認識し、まるで公に許可を得たように笑う。面白いのはボケている部分のはずなのだが、笑いのスイッチはツッコミが握っている。
つまりツッコミというのは、「ここが笑うところですよ」と受け手に知らせるためのスイッチなのだが、それは人によっては、いらないスイッチであるかもしれない。最新の電化製品に必要のないボタンが多くついているように、それは必要のないものなのかもしれない。
バカリズム升野は狩野英孝に「ツッコまない」ことで、狩野を自由奔放に泳がせることに成功した。彼がゲスト出演した一時間もの間、そこには紛れもない「ツッコミレス」の世界が立ち現れたが、ではツッコミは本当にどこにも存在しなかったのかと問われれば、そんなことはない。ツッコミ役は他でもない、受け手であるリスナーである。
だがそれは、「リスナーが番組宛てにメールでツッコむ」という意味ではない。この日の放送でもリスナーからのメールは読まれたが、それは狩野へのツッコミではなく、むしろ升野と同様、狩野を泳がせる方向のメールだった。つまりツッコミはリスナーの脳内にしか存在せず、そのツッコミは永遠にボケ役の狩野には届かない。だから「ツッコミレス」の世界は、ツッコミの影響をまったく受けずに機能し続ける。そんな真空状態が、稀代の天然キャラを存分に泳がせるためには必要だった。それが一瞬ではなく、一時間もの長尺に渡って続いたのは、結構奇跡的なことなんじゃないかと思う。
以前いとうせいこうが、確か『文芸漫談』というライヴの中でだったと思うが、「カフカやカミュのような欧州文学にある笑いには、ツッコミがない。ツッコミは読者だ」というようなこと(記憶曖昧)を言っていた。たしかにカフカの文章は、実のところ全編ボケッ放しなくらいボケ倒しているのだが、ツッコミが笑う許可を一切出してくれないものだから(いや誰も笑うことを禁止などしていないのだが)、それがボケであることに気づかず、真顔で受け止めている人が大勢いる。ツッコミというのは補助輪のようなものだから、それを外されたら乗れないという人は少なくない。自転車だってそうだが、補助輪なしで乗るためには、補助輪を外すしかない。つけたまま練習してたら、いつまでたっても二輪では走れない。
もちろんツッコミにはツッコミの面白さがあって、個人的に好きなツッコミ芸人も少なからずいるが、「ボケ-ツッコミ」という構図は笑いの一形態に過ぎず、それがすべてではないということは、もっと広く認知される必要がある。途中で逐一ツッコまずにボケを悠々と泳がせることで、ボケが続々と積み重なって巨大化してゆく。そういうタイプの笑いは決してわかりやすいものではないかもしれないが、そこには大きな可能性を感じる。