『日刊サイゾー』のラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」弟13回は、大晦日の「ヨイトマケ」明けに放送された元日特番『美輪明宏 薔薇色の日曜日 愛の手引書2013』を手がかりに、いま我々に必要な「遊び」について考えてみた。
【「ヨイトマケ」の圧倒的パフォーマンスの根底に宿る「遊び」の精神『美輪明宏 薔薇色の日曜日』】
http://www.cyzo.com/2013/01/post_12323.html
ここで言う「遊び」というのは、「遊びごころ」という時の「遊び」であると同時に、「車のハンドルには適度な遊びが必要だ」というときの「遊び」でもあって、それはある種の「余裕」という意味でもある。ハンドルに「遊び」のない車など、愚直すぎて運転できたものではない。人生をドライブにたとえるならば、そんな車でのドライブは「娯楽」ではなく、至極業務的な「運転」に終始してしまう。つまりここで美輪明宏が言っているのは、人生を単に生きる作業としての「運転」に終わらせるのではなく、エンターテインメントとしてどう楽しんでいくかということだろう。
といってもそんな希望は、昨今の楽曲にあふれている「大丈夫」「そのままの君でいいよ」的な、無責任な安堵感を大雑把に放り投げるような言葉によってもたらされるわけではない。そんな表面の整った言葉とは反対に、「ヨイトマケ」という、非常にシビアな言葉を通じて明日への希望を伝えられるというのが、美輪明宏の真骨頂であり遊びごころだと思う。芸術もエンターテインメントも本来はそういうものであり、ポジティブなメッセージを伝えるためには、その裏に貼りついているネガティブな要素を絶対に無視できない。それどころか、裏が表を支えていると言っても過言ではない。
だから希望を語るときには必ず、現実に即した厳しい言葉が必要になる。しかし厳しいだけの言葉ならば、誰でも言える。そこになければならないのは、厳しさを希望につなげるユーモアであり遊びごころなのだと、改めて痛感する。