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『キングオブコント2015』最高得点をマークしたロッチの1本目は、何がどう凄かったのか?

キングオブコント2015

キングオブコント2015』にて、500点満点中478点という最高得点を叩き出したロッチの1本目(試着室ネタ)。2本目のユルさが大きく足を引っ張って優勝こそ逃したものの、このネタが今大会のハイライトだったと感じた人も少なくないだろう。得点だけでなく、審査員からも絶賛の声が続々あがっていた。しかし一部では、「あんな繰り返しネタの何が面白いのか?」といった意見も少なからず見受けられる。実際、大会翌日にお笑い好きの友人と話していた際にも、「何が面白いのかわからなかった」「繰り返しなので先が読めてしまう」「途中で飽きた」「あれじゃドリフでしょ」という批判があった。その気持ちは凄くよくわかる。しかしそれでも、このネタはやっぱり最高に面白く、非常にレベルが高いと僕は思う。

このネタに関して、改めて個人的に考えたことを書いていきたいと思う。それは主に、笑いにおける「繰り返し」と「展開」と「推進力」の話になると思う。特に、「繰り返し」と「展開」は相反する要素ではない、ということについて書くことになるだろう。「繰り返し」の中にも、というよりは「繰り返し」の裏にも、「展開」はある。

ロッチのあの試着室のネタは、「客が試着室でズボン穿けたと言っているにもかかわらず、店員がカーテンを開けてみたら途中までしか穿けてなくてパンツ丸出し」ということをただひたすら繰り返すというだけの内容である。もちろん繰り返しの中で使われている台詞回しや行動は厳密に言えば同じではなく、その細かな違いが展開上重要な鍵を握っているのだが、基本的にこのネタが同じ行為の「繰り返し」を中心に成り立っているのは間違いない。

ではそもそも、「繰り返し」とはなんなのか? もちろん「同じことを何度もやること」だが、それはあくまでも見かけ上の、「行為」としての「同じこと」を意味する。つまり「行為」以外の要素、たとえば、その行為に伴って発生する「感情」であったり、その行為から受け取る「意味」というものは、「繰り返し」の行為の中にあっても、何かしらの「変化」をする。1度目にその行為を見たときのリアクションと、2度目にそれを見たときのリアクションは、むしろ異なるのが自然だ。

たとえば人はよく、「1度目の失敗は許されるが、2度同じ失敗をすることは許されない」と言う。みな1度目の失敗に対しては比較的寛容で、「慣れてないからかな」「偶然かな」「運が悪かったのかな」などと考えて許すことが多い。むしろ許さないと、狭量な人だと思われる。

だが2度目の失敗に関しては、その失敗の行為はまったく同じであるにもかかわらず、いま挙げた3つのエクスキューズはすべて無効となり、「許せない度合い」が一気に上がる。1度すでにそれを経験しているということは、その失敗の原因は「慣れていない」からでも「運や偶然」によるものでもなく、ほとんど本人の能力や心がけの問題として咎められることになる。1度目の失敗は笑って見過ごせても、2度目の失敗により、その微笑ましい気持ちは失望や怒りに変わる。1度目の失敗で能力の高低を判断するのは拙速にすぎるが、2度目の失敗によりその能力的欠陥は早くも決定的となる。

つまり同じ失敗行為であっても、1度目と2度目では、それによって生まれる「感情」と「意味」が、まったく異なるということだ。3度目ですっかり失望し、4度目でむしろ確信犯の疑いが浮上、5度目に至っては狂気すら感じるようになる、なんてこともある。ここで言う失敗を、お笑い的に「ボケ」と言い替えてみると、このコントの本質が見えてくる。

これは別の言いかたをすれば、同じ行為が繰り返されてゆく中で、それに伴って生まれる「感情」と「意味」が、同じ場所で停滞するのではなく様々に「展開」し、ある方向へと確実に「進行」しているということである。

僕も過去に同大会のレビューで触れてきたように、いまのお笑いネタは常に「展開力」を求められている。たとえ設定が面白くても、進み方が直線的であったり、状況の変化に乏しいネタは後半飽きられる。と同時に、物語を前へ前へと進める「推進力」もまた、観衆を引っ張ってゆくためには不可欠な要素であり、つまりは速く、しかし直線的でなくジグザグに前へと進む、スラロームのような進行が理想だと言えるかもしれない。もちろん例外は存在するはずだが。

そういった意味で、このロッチの試着室コントに関しては、「繰り返しばかりで展開がない」「状況が停滞して前に進まない」といった批判が持ち上がってくるわけだが、それはあくまでも見た目上の話でしかない。その繰り返される愚行(ズボンが穿けてないのにカーテンを開ける許可を出す)のバックグラウンドで、その行為が観衆の心の内に呼び起こす「感情」や「意味」は、確実に、むしろ激しく「進行」し「展開」している。失敗を重ねるにつれ、可愛げのあるドジはやがて確信犯のキナ臭さを感じさせ、徐々に恐怖を身にまといつつ、対話不能な狂気へと向かってゆく。当初は「伝えかたによっては直るかな」と感じていた症状が、少しずつ改善の可能性を減少させつつ、最終的には「コイツにはなに言っても無駄!」という、更正の余地ほぼゼロの重症状態へと「進化」(退化?)してゆく。

つまりこのコントの評価軸を、ただ繰り返される「見た目の状況」ではなく、それを観た際の「自分の心の中の感情や意味の変化」に置いた人が、このコントを面白いと感じた、ということなのではないだろうか。

そしてもうひとつ、このコントにおいて、彼らが非常に勇敢な選択肢を取っている部分がある。それは、中岡の「ズボンが穿けてる度合い(=穿けてない度合い)がずっと変わらない」ということである。

最後に下げたり上げたりする箇所はあるが、そこまでのルーティーンの中では、何度カーテンを開けても中岡のズボンの位置(つまりパンツの見え具合)は変わらない。先に書いたように、昨今のコントにおいて、「状況が前に進んでいるという手応え」というのは重要な要素で、このコント設定の中で物語の進行を示すには、「徐々に穿けてるラインが上がっていく」というのが最も確実であったはずだ。それによって、「次にカーテンを開けたら、ズボンはどこまで上がってるんだろう?」という興味と緊張感が生まれる。

しかし彼らは、そういう安易な進行をあえて封じるという選択をした。その結果、「穿けてるラインがいっこうに変わらない」という見た目の「動かぬ状況」が、中岡の「本気で穿く気のなさ」を伝え、その「穿く気のなさ」が受け手の脳内に、「じゃあこの男は何しに試着室へ入ったんだ?」「単なるひやかしなのか?」「だとしたらなんで7割方穿いてるんだ?」「これは新手の詐欺(穿く穿く詐欺)なのか?」「こいつは生まれてこのかた、一度もズボンを真の意味で穿けたことがないんじゃないか?」「いや逆にこの状態こそが、このズボンの正式な穿きかたなのか?」「ひょっとして単に頭のおかしな奴ってだけ?」というような、様々な思考の展開とスリルをもたらすことになった。

――と、こうやって執拗に考えてみたところで、別に面白さの本質が「わかる」わけではない。しょせん「わかる」ようなことはたいして面白いことじゃないし、「わからないまま面白い」というほうが凄いかもしれない。というわけで最後に、ラジオ『爆笑問題カーボーイ』で太田光がロッチのこのネタに贈った賛辞を引用して締めくくりたい。長々と書いてきたが、これだけで充分かもしれない。

太田光「ロッチ最高!(中略)あいつら、パンツ見してるだけなんだもん」