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『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』2014/6/6放送回~きよしがボケてたけしがツッコむ! ツービートのゲスト出演にみるボケとツッコミの交換可能性~

漫才コンビのボケとツッコミは、どうやら歳を取ると入れ替わることがあるらしい。

今日の『高田文夫ラジオビバリー昼ズ』には、ツービートがゲスト出演。この番組にはこれまでにも、たけしが単体でゲスト出演したことはあるが、二人揃っての出演は初めて。そもそも番組パーソナリティの高田文夫は、『ビートたけしオールナイトニッポン』や『北野ファンクラブ』でたけしの捕手役を務めてきた人なので、たけしがひとりでゲストに来た場合は、基本的にたけしがボケて高田文夫がツッコむというお馴染みの役回りになる。しかし相方のビートきよしがここに放り込まれるだけで、フォーメーションが劇的に変わるのが面白い。

普通に考えれば、ビートきよしはもともと漫才の典型的なツッコミ役であり、高田文夫もたけしと共演する際はツッコミ役に徹しているから、この三人を配置した場合、たけしのボケにきよし&高田の二人がツッコむという構図になるのが自然であるように思える。たけしのボケには複数人でツッコんでも手に余るほどの毒があるため、二人でツッコもうが三人でツッコもうが負けることがない。

だが今日のボケ役は、圧倒的にビートきよしだった。金曜『ビバリー』のレギュラーには松村邦洋磯山さやかもいるから、正確には計四人のツッコミを、きよしただ一人が終始浴びつづけていたことになる。逆に言えば、四人がかりでツッコミ役に回らなければ手に負えないほど、今日のきよしはボケにボケ続けた。

もちろんここで言うボケとは、たけしが放つような計算し尽くされたボケではない。完全に天然物のボケであり、もっといえばポンコツとしてのボケである。狩野英孝出川哲朗系でありつつ、それ以上に自覚症状のないボケ。的確なツッコミが入らない限りはボケとして認識されないタイプの、つまりは「ボケ」というよりも感覚的な「ズレ」に近いようなボケである。

その場合、ボケに対するツッコミも、「ツッコミ」というよりは、幼稚園児に対する「注意」のようなものになる。事実今日のきよしも、たけしを中心とした計四人から、その話術のたどたどしさや意図不明っぷりについて、終始「注意」され通しだった。そしてその「ズレ」を「注意」するという状況には、なぜだかどうしようもなくワクワクするような面白さがある。もちろんツッコむ側にしても、その「注意」する際に選ばれるツッコミのワード自体がボケを孕んでいる、というさらに一回転した構造もあって、そこまで含めて初めて成立する面白さではあるのだが。

SMについてよく言われる話に、「S属性の人間ががさらに強いSに出会うと、弱い方のSは自動的にM化していく」というものがある。そういう構図がお笑いのフィールドにも間違いなくあって、その役割の流動性は常に新たな笑いの可能性を予感させる。今日の番組にはまさにそういうフォーメーション的な面白さが見出せたわけだが、ではツービートの二人の関係に焦点を絞って考えたとき、ボケとツッコミはいったいどうなっているのか?

コンビ結成当初はきよしがネタを作り、「オレがボケるからどんどんツッコんで来い」と言い張っていたものの、きよしが舞台上で全然ボケないので、たけしがネタを作りボケるようになって売れた、という話を聴いたことがある。そういう意味ではきよしにはもともとボケ志向がある、と言うこともできなくはないし、たけしは実際のところ多くのテレビ番組でツッコミ側の役割を果たしており(番組の中心に立つと自動的にそういう役回りになる)、ツッコミにおいても当代一流であることはとっくの昔に証明されている。とはいえツービートのボケといえば、やはり疑いなくたけしのほうだろう。

では他のコンビの場合はどうか? 奇妙なことに、他のお笑いコンビに関しても、近年同じようなことが起きている。ダウンタウンは浜田のポンコツ化をネタにすることが多くなり、かつては「三村ツッコミ」とまで言われたツッコミの権化さまぁ~ず三村も、今やイジられる場面がかなり増えている。千原兄弟の場合もせいじの奇怪なエピソードにジュニアがツッコむという形が頻繁に見られるようになり、爆笑問題も「実は田中のほうが変わっている」と方々で囁かれるようになった。

これはコンビが売れていく過程でそうなっていくものなのか、あるいは加齢によるツッコミのポンコツ化によりそうなるということなのか。

前者の場合、コンビはボケ役の方が先に売れることが多く、売れていくと当然番組の柱、つまりは司会を任されることが多くなるから、自動的にボケ役のツッコミの技量が上がり、テレビ出場機会の少ないツッコミ役の相方よりもツッコミが上手くなった結果、ボケとツッコミが入れ替わる、という事態が考えられる。

後者の場合は、ツッコミ役のシャープさ的確さスピード感が加齢とともに年々弱まっていき、多くの場合ネタを作っているボケ役がその鈍ったツッコミの仕切りに満足できなくなり、自らがツッコミ役に回る。その一方で、役割どおりのきっちりとしたツッコミを放棄したツッコミ役から、機能的な部分(ツッコミの技術)以外の人間的な味(=可愛気あるいはポンコツ感=ボケ)が徐々に染みだしてきて、そのキャラクター的な魅力が機能的な役割を越えたときにボケとして開花する、というような形があり得るのではないか。

いつの間にやらだいぶ射程の長い話になった。ちょうどW杯が近いということもあって、「フォーメーションの流動性」というようなことについて考えたくなっているのかもしれない。まあそこまで話を広げなくとも、お笑いコンビの場合、「相変わらず面白いから気づかなかったけど、いつの間にか役割が真逆になっている」なんてことが意外と良くある。そういう変化について、今後も考えてみたいと思う。