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『R100』/松本人志

前二作(『さや侍』『しんぼる』)の出来と今作の前評判の悪さに覚悟を決めて行ったら、「意外と悪くない」と思えた。もしもそういう逆方向への前フリが効いていなかったらどう感じたのだろうと考えてみても、もう先入観のない状態に戻ることはできない。ただ言えるのは、『大日本人』が大丈夫だった人なら、いけるかもしれない。過去作のどれに似ているかと問われれば、迷わず『大日本人』を挙げる。

つまり松本人志が毎度口にする「見たことのないものをお見せします」という売り文句には、今作もまた応えてはくれない。これは『大日本人』同様、実に「松本人志らしい作品」である。キャスティングは冒険的だが、作品の形自体はむしろ保守的だ。映画というジャンルに対しては挑戦的かもしれないが、松本が創ってきた過去の作品に対しては保守的であり忠実である。要は「『ごっつええ感じ』のコントを、お金と時間をかけて拡大したらどうなるか」という話であり、問題はやはり、数分のテレビコントのアイデアを100分という長さにしたときに、その長さのぶん面白さが増大するのか薄まるのか、という点である。そしてそのメリットとデメリットは、本作においてより明確に現れている。

松本は常に映画の前半を「単なる前フリ」として使ってくる。おそらく彼にとっては、「長大な前フリのストロークの大きさ」こそが映画というメディアの利点であり、それによってラストのオチとの落差を最大限まで引き出し、その振れ幅によって作品全体としてスケールの大きな笑いを獲得しようという狙いが見える。

だが映画という形式上の利点を生かそうとした結果、他の「映画らしい映画」以上に前フリが退屈になってしまっている。その点、実のところ普通の映画以上に映画らしい作りになっている。とはいえ最近の観客はせっかちだから、映画でも冒頭からポンポン展開するものが多く、本作の前半部分には、むしろ珍しいくらい「古き良き映画」のゆったり感がある。前半をまるまる世界観の説明に使うという余裕は、やはり映画という「長時間に渡って観客を拘束できるメディア」でなければできないことのひとつではあるだろう。

物語はある「事故」をきっかけに、後半一気に加速し活発に展開する。そこに至って前半の前フリが様々に効いてくるため、前半の退屈さはやはり必要だったのだと言うこともできる。といっても、それら前フリの使い方が、「伏線を回収する」といった正攻法ではなく、「伏線の意図的な悪用・逸脱・軽視」であるため、「あれだけ長い前フリを適当に使い捨てやがって」とか、「ちゃんと回収できないならフラグ立てるなよ」と思う人も少なくないと思うが、「笑い」としてはむしろ前フリを徹底的に「無駄遣い」することこそが正しい使用法であるので、文句を言われる筋合いはないだろう。そこは本作云々ではなく、「笑い」とその人のつき合い方の問題である。そして前半をまるまる台なしにするその思い切りの良さこそが、本作の見どころだろう。しかしだからといって前半が退屈でなくなるわけではない。

その点、むしろラストでひとつのありがちなメッセージのもとに伏線を全部回収してしまったことのほうにこそ、不満を覚える。途中に挟まれるメタ的な手法にしろ小ネタにしろ、最近の松本人志はどうも最後の土俵際のところで、中途半端に観客におもねる癖がある。それは常に「わかりやすさ」を求められるテレビの基準が彼の身体に染みついているせいかもしれないし、テレビ慣れした周囲の作家陣及びスタッフのアドバイスによるものなのかもしれない。興行成績の悪さから、サービス精神を求められるという状況も理解できる。しかしどうせやるならば、最後にちゃぶ台ひっくり返して、そこらじゅう散らかしたまま無責任に帰るくらいのほうが面白い。映画なんか観ても何ひとつ役に立つことなんかねえぞ、テメエらに理解される程度のことなんてやるわけねえだろと嘯き、客席に背を向けて孤独な道を独走してほしい。

といっても、おそらく今の制作体制でそれは無理だと思うので、もし次作をやるのならまったく別の制作環境でやってほしい。いつものスタッフではない人間と組んだときに、その創作者の最も濃い部分が出てくるのではないかという、いわば希望的観測。