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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第27回更新~『井筒とマツコ 禁断のラジオ』~

ラジオコラム第27回は、剥き出しの感性の接触が七色の罵詈雑言を生む『井筒とマツコ 禁断のラジオ』について。

【辛口2トップの知性と感性が絡み合う、禁じられた遊び『井筒とマツコ 禁断のラジオ』】

http://www.cyzo.com/2013/08/post_14201.html

この2人、もちろんただ過激なだけではない。過激なことを言う人に対し、「あれはただ言っちゃいけないことを言ってるだけで、誰だって言える。みんな良識があるから言わないだけで」というようなことを言う人が時に現れるが、それは自惚れが過ぎる。人間というのは思った以上に順応性の高い動物であって、言ったことのないレベルのことはすぐに言えなくなる。言えたとしても、面白く言えなくなる。自分で思ったほど面白く言えなくなる。

ある意味で、面白さとは正確さである。情報的に合っているという意味での正確さではない。自分が思い浮かべたことを、思った通りに表現できる正確さである。面白いと感じたことを、劣化なく面白く伝えられるかどうか。あるいはさらに、思った以上に面白く伝えられるかどうか。面白いことは表現されてはじめて面白くなるわけで、思い浮かべた時点では面白いとは認められない。だから面白さは表現力と直結している。井筒監督やマツコの放つ剥き出しで感覚的な、ある種ポエティックな言葉の数々を聴いていると、言葉の大切さを改めて痛感させられる。

一般に丁寧で美しい言葉に出会ったとき、人は言葉の大切さを再認識するものなのかもしれないが、それだけではあまりに価値観が狭すぎる。井筒監督が「この金平糖が!」「ひっくり返すぞ!」「思いっきり裏返したるからな!」と独特な言い回しで暴言を吐き、マツコが男性器を「すくい上げたい」とその願望を言い表すのを耳にするとき、やはり感覚をしっかりと言葉に乗せているという意味で、言葉の力を確かに感じることができる。そして感覚を表現しきった言葉というのは、どんなにささくれ立っていても美しい。整った美しさだけが美しさではなく、極端に振り切れたものにしか表現し得ない異形の美しさというものがある。

生放送ではないがここには生の言葉がある。