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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第26回更新~『夏休み子ども科学電話相談』~

ラジオコラム第26回は、もしかしたら子どもよりも大人が聴いたほうが発見が多いかもしれない『夏休み子ども科学電話相談』について。

【大人の死角から真っすぐに繰り出される、子どもたちのスリリングな質問力『夏休み子ども科学電話相談』】

http://www.cyzo.com/2013/07/post_14054.html

定型句のように「今どきの子どもは」という言葉でくくられることも多い現代の子どもたちの、どこが昔とは変わってどこは昔と変わらないのか。これはたとえばそんな楽しみかたもできる番組で、結論から言うと、やっぱり根本的なところではいい意味であまり変わってないのだと思う。

聴いていて今の子どもが昔と比べて凄く変わったなと思うのは、実は非常に表層的な部分で、もっと言えば文化的背景の変化、さらに言えば単純に道具の変化/進化がその根本にある。

たとえば昔と変わらず多いカブトムシに関する質問が来たときに、回答者の先生は必ず「エサは何をやっているの?」と訊くのだが、その答えがみな一様に「昆虫ゼリー」であることには、せっせとスイカの食べ残しを虫かごに投入していた世代としては、やはり少なからずカルチャーショックを受ける。もちろんそう言われた先生もショックを隠しきれず、「昆虫ゼリーか…」と語尾に落胆の色を毎度浮かべることになる。

だが一方で、やっぱり変わってないなと思うのは子どもたちが好奇心を示す対象で、そこにはやはり今も昔も変わらぬ何かしらの普遍性がある。

彼らの興味の対象は、まずなによりもやはりカブトムシ、動物の鳴き声、冬眠、そして「得体の知れない恐怖」だ。前の三つは容易に想像がつくとして、問題は最後の「恐怖」だが、これはたとえば「月がずっと僕の後ろを着いてくる」とか「動物園の猿がいつか人間になって襲ってくるのではないか?」とか「空の星が爆発したら地球がなくなってしまうのではないか?」というような種類のスケールの大きな「恐怖」で、もちろん彼らだって完全にそれを信じているわけではないだろうけど、たぶん「大丈夫だよ」という大人のひとことが欲しくて電話してきているのだと思う。

考えてみれば誰だって子どものころは「影の形が変わるのは影が生きてるからなんじゃないか?」とか「月は僕のことずっと見てるんじゃないか?」とか考えていたはずで、ではなぜそれを考えなくなったかというと、けっして理解して結論が出たから考えなくなったわけではなくて、単にそれについて考えることをやめて目の前の現実を無抵抗に受け入れることにした、というだけだったりする。

そうやって自らを思考停止状態に追いやることで、わからないまま棚上げにしてきた問題が無数にあるのだということに、多くの人は気づかないまま歳を重ねてゆく。子どもたちの素朴だが容赦ない質問は、そうやっていったん止めたまま錆びついていた思考のスイッチを、たたき起こして強引に再起動してくれるかのようだ。