テレビに耳ありラジオに目あり

テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場

     〈当ブログは一部アフィリエイト広告を利用しています〉

『さまぁ~ず×さまぁ~ず』2012/6/9放送回~燃えない怒りを笑いに変えるシステム~

芸人は結婚すると丸くなる。嫁が歳下であればあるほど丸くなる。そして子供ができるとさらに丸く、子供が女の子だとMAX丸くなる。

自分の番組を嫁やその家族が観ていたら何を言われるだろうか? ましてや娘には、どのような影響を与えてしまうだろうか? そう考えると萎縮してしまうのはむしろ自然な心の動きだろう。松本人志ブラマヨ小杉もホリケンも、明らかに丸くなった。いまの姿からは想像し難いが、あのさんまでさえそうだったのだから。原因はもっと複雑かもしれないが、結果としてみんな丸くなっているという現実がある。

そんな中、次に心配していたのはさまぁ~ず大竹である。産まれたのが男の子であったことには、正直少しホッとした。「大竹はもともとそんなにとんがってないじゃん」と思う人は、さまぁ~ずの本質が見えていない。そういう人はきっと、この番組を観ていないのだろう。さまぁ~ずの笑いの根本は、大竹の怒りでできている。

コンビニ店員、カフェ店員、飛行機の客室乗務員…大竹はとにかく、あらゆる「員」に怒る。「員」なのにちゃんと「員」じゃないことに怒る。「員」とはつまり「プロフェッショナル」ということだ。バイトでも契約社員でも、客からしたらプロはプロ。できないことをできると言ったのにできない店員、逆にできることをできないと言い張る店員。そういうプロフェッショナルでない態度に出会うたび、大竹は怒る。その怒り方の説明が、精緻で面白い。

相手の行動手順と自分が怒るに至る思考過程をシンクロさせて語るのは、案外難しい。人が怒るには、「ここぞ」というタイミングがあって、そのタイミングがピンポイントで聴き手に伝わらないと面白くならない。「全体にムカついた」というのでは、どうにも共感できない。その怒りの沸点のタイミングを伝えるには、その手前にある「ここまでは許した」という「百歩譲ったライン」の明確な線引きが必要になる。

大竹はその、「ここまではわかる→このあたりで『あれ?』と思いはじめたがまあ、百歩譲ろう→しかしここでついに許せなくて怒った」という心の動きを、的確に説明する能力が異様に高い。それは感情の記憶というよりは、理論立てて話しているうちに、ありもしなかった怒りの記憶までが立ち上がってくる感触があって、それが話を面白くする。

つまり怒りを説明して笑いを取るには、かなりの根気を必要とする。そういうタイプの人は、実は短気というよりも、ある種の粘り強さを備えている。怒る人が必ずしも短気とは限らない。単に短気な人は、その場で怒るとスッキリしてしまうので、その人の「怒った話」はつまらない。怒りを面白く話すには、精緻な理屈が必要だ。

この日の大竹は、飛行機の中で乗り合わせた気に食わない女性客の話をしていた。「員」ではなく「客」の話をするのは珍しいなと思って聴いていると、その女性客は、客室乗務員に「なんで和食が品切れなんだ!」とキレるタイプの、しかしその怒りの理由を滔々と説明し続けるタイプの、つまりは大竹と同種の客で、その客の声を大竹は、「俺こういう奴嫌いだわぁ」と思いながら聴いていたという。

「人のふり見て我がふり直せ」を地でいくような、一周回って自分にはね返ってくるような話だ。しかしこの女性客に単純に共感するのではなく、客観的に「俺こういう奴嫌いだわぁ」と突き放すことで、自己批評を試みながらも反省はしないというあたりに、関西芸人とは違う東京芸人の、情に頼らない理詰めの面白さがある。

芸人にとって「丸くなる」とは、「結婚」「子育て」「加齢による後輩の増加」など様々な要因により、周囲に対し「情け深くなる」ということなのかもしれない。それは一般社会人であれば好ましい変化・成熟と捉えられるかもしれないが、世の中のあらゆる人や出来事を情け容赦して許していたら、芸人としては不感症に陥ることになる。

他の出演番組では「最近やはり丸くなったのでは?」と感じさせるシーンも少なくない大竹だが、この『さま×さま』と『モヤさま』を観る限り、その矛先は依然として鋭い。『モヤさま』で、店員がグイグイ何かをお勧めしてくるのを「あ、大丈夫です」のひと言で無残にも願い下げるあの非人情的な瞬間には、冷たさよりもむしろ率直な頼もしさを覚える。

【『さまぁ~ず×さまぁ~ず』HP】

http://www.tv-asahi.co.jp/summers2/