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『大日本人』/松本人志

評価軸を「映画」に置くか「笑い」に置くかで評価が真っ二つに分かれる作品。

世に蔓延している評価は、「そこそこ面白いけど映画としてはどうか?」「テレビでやる分にはいいけど金を払って観るとなると疑問」といったものが多い。

実際、僕の隣に座っていた男は、終始過剰な爆笑を繰り返した末、終演後に「全然あかんわ。まったく映画になってへん」と言い放った。さんざん笑い存分に楽しんだ挙げ句の、最低の評価。つまり彼は映画に笑いなど求めていないということだ。さんざん男に貢がせ笑顔振りまいておいて、いざとなると「そういうんじゃないから」と言い放つ悪女のごとき振る舞い。

そもそも「映画」って何かね?「映画として」ってどういうこと?深遠なメッセージ性とか、反戦の主張とか、大いなる感動とか、圧倒的スペクタクルとか、そういうこと?そういうのなら、この映画には全部ない。

「映画」というジャンルに、何の特権意識も感じていない僕のような人間は、単純に笑いのレベルで評価した。監督が笑いを志す人間であって、作品が笑いを主体に作られたものだからである。それ以外の付随する要素(反戦のメッセージだとか、天才の悲しみだとか、いじめだとか、戦争に無関心な国民性だとか)は、たまたまくっついてきた、あるいは、評論家が勝手に後づけしただけのものに過ぎない。

これは、過去に松本人志がやってきたコントの集大成である。それはすなわち、クオリティ的にも過去作品すべてのど真ん中という意味で、つまり可もなく不可もなく平均点の作品であるということだ。

だが松本の平均点が恐ろしく高いことを、忘れてはならない。だから彼のコントが好きなら普通に楽しめる。ここには何も新しい要素などありはしない。いつもの松本ワールドだ。

問題があるとするならば、松本およびスタッフが公開前から「誰も見たことのないまったく新しいものをお見せします」などと喧伝してしまったことだ。

確かに映画としては新しいかもしれない。「映画として」まともに評価してくれない観客がいるのが何よりの証拠だし、だいたい映画でコントをまんまやる人など他にいない。映画でないものを映画館でやれば、それが新しく見えることは当然であって、少なくともパン屋で冷やし中華をはじめるくらいの新しさは勿論ある。

だがコントファンにとって、これはまったく新しくもなんともない。だから定石通りに良くできたコントとして評価する。

映画に特別なこだわりを持つ人、映画に対し何らかの理想を抱いている人ほど、本作に対する評価は厳しくなるだろう。だが映画館で上映した以上、これも映画だ。